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高校説教:人生は「死刑囚」に似ている

知り合いが癌で亡くなりました。71歳でした。

9月のある日、医者から「余命1~2週間、長くて一ヶ月」と宣告され、死に直面して、最期の心境を書き残そうと思い立ち、教会の月報に記事を書きました。

その月報が配られる10月1日に帰天され、記事が葬儀で読まれ、それが人生最期の言葉になりました。そこには何が書かれていたのでしょうか?

「洗礼を受ける前は、死を思うと不安になり、怖くなり、考えないようにしていましたが、今は、神の手に自分を委ねればいいと思えます。強がりではありません。正直な気持ちです」。

10年前に奥様の影響で洗礼を受けていました。そのことを心から感謝して、神様の望まれる生き方をしたいと、退職後はボランティア活動に精を出し、人を助けることを大切に生きて来られました。だから、死を前にしても落ち着きと平和な心でいられたのでしょう。

記事は続きます。

「今の私は、考えてみれば死刑囚と同じです。独房に入れられ、、どこにも行けず、誰とも会えず、一日を過ごし、明日は死ぬかもしれないと思い、眠りに就きます」。信仰があれば、神に祈り、死後の世界に想いを馳せる楽しみがありますが、信仰がなければ、日々の暮らしは死刑そのものよりも苦しいでしょう。生きる希望がないのですから。「私は思います。癌で余命を宣告されなくても、人間は必ず死にます。死を宣告されているのと同じです。それがいつかも知りません。明日かも知れないのです。これは死刑囚と同じです」。
多くの人は死を忘れているだけで、死刑囚と同じ状況にいることに気づいていないのです。

ある高名なお医者さんが、常々言っていました。

「私が癌になったら、必ず余命を宣告してほしい。残された日々を活用して、旅行をして、友と語り、美味しい食事をして、楽しんでから死にたいから」。

はたして、癌になり、主治医から余命1カ月と宣告されました。そのお医者さんは、どうしたでしょうか?その日の晩に自ら命を断ちました。死と向き合うと、この世の楽しみを楽しめないのです。生きる希望が無いので、何をしても虚しく感じるのです。それまで死に背を向けてこの世を楽しんできたからです。それは死に通用しません。

あなたの人生は、死によって立ち切られてしまう生き方ですか?それとも、死に直面しても崩れない、むしろ死によって完成されるような生き方ですか?11月は「死者の月」、あなた自身の死を黙想しましょう。■(文責:小寺神父)
2023/11/10 高校二年生への説教