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選択の自由をもっと活用しよう!


現代人にとって自由は「選択の自由」を意味します。

キリスト教的には、自由とは神から与えられた「愛するための賜物」です。

この場合も、「神」を選ぶか「自分」を選ぶか、究極の選択を迫られます。

「愛する」とは「自ら選ぶこと」だからです。

世間で考えられる「選択」は、「山に行くか、海に行くか?」といった「したい方を選ぶ」という外的な選択ですが、実際の生活は義務を果たすことが多いため、外的な選択の余地は多くありません。

キリスト教的「選択」は内的な方を強調します。その点について考察しましょう。

内的な選択の自由を行使している人は少ないのが現状です。

たとえば、誰かから失礼な態度を取られた場合、あなたはどう応えますか?

腹を立てる、文句を言う、仕返しをする、などが思い浮かびますが、いずれも自由に選んだ態度とはいえません。自然に「そうなってしまう」のです。意識して自覚して選択したのではなく、一種の条件反射のような振る舞いです。そして、誰も疑問に思いません。当然だと感じています。実際は、相手の言動によって自分の心が操作され、動かされているのです。それを能動的な態度に変換する必要があります。

それが内的な選択の自由です。

ある人は、まったく別の態度を取ります。

たとえば「ゆるす」「相手の状況を考える」「気にしない」などです。

感情に流されて感情的な態度を取る人がいる一方で、冷静に理性的な態度を取る人もいます。

どちらが自由ですか?自分の行動を自覚して選択する人です。外的な刺激に対して、理性を通して反応できる人は「選択の自由」を行使しています。理性を使わず感情で反応する人は、心が不自由な人です。選択できていないのですから。

自分は「ゆるしたくないから、自由に文句を言う」と屁理屈を言う人もいそうですが、「ゆるす」という高貴な態度が「できない」ことに変わりなく、やはり不自由なのです。

もう一つだけ例を挙げます。

思い通りにならず、苛々することがあるでしょう。

必然だと感じてしまいますが、自分の心がコントロール出来ていない明らかな印です。「そうなってしまう」のです。それ以外の応え方ができない、あるいは知らないのです。

そして自分の外に原因を探して、人のせいや出来事のせいにします。そして自分は被害者になり、不幸になります。

変えることができることは変える努力をして、変えられないものは「受け入れる」という選択があります。自己愛に執着せず、選択の自由を使う練習を始めましょう。■
2023/09/08  高校2年説教(文責:小寺神父)