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今日(10月6日)は聖ホセマリア司祭の列聖記念日です。
司式をした聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、彼を「日常生活の聖人」と呼びました。
日々の当たり前の生活を真心込めて人々に仕える心で果し、平凡な義務を徹底的に英雄的によく果すなら、それは偉大な価値を持つと教えたからです。
ところが、日常生活は小さな義務の連続で、一つ一つは大切に思われません。どうすればいいでしょうか?
簡単です。
日頃、母親から言われている事を自分からすればいいのです。
布団をたたむ。モノを片付ける。靴を並べる。椅子を入れる。食器を片づける。いずれも簡単ですね。だから忘れたり、雑になったりします。
まだあります。挨拶をする。「いただきます」は命に感謝する言葉です。「ごちそうさま」は「御馳走様」、食事を準備してくれた人への感謝です。授業前後の「起立、礼!」は師への敬意です。
掃除は場所を清めながら心を清めることです。あらゆることが人と神につながっているのです。
実は、イエス・キリストも同じことを教えていました。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、そのまま残る。地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」。
麦の粒は私たちです。各自が自分のことだけ考えて生きれば、一人のままで孤独な死を迎えます。一人一人が自己愛を捨てて「自分に死ねば」人々に仕え、人々を喜ばせ、人々を幸せにすることができます。
その結果、人々から信頼され、慕われ、助けられ、多くの人と信頼と愛情の関係を築き、実り多い人生になります。「自分に死ぬ」のは、一生に一度あるか無いかの特別なことではなく、毎日の各瞬間です。日常生活の小さな事を通して周囲の人を喜ばせればいいのです。
日本にも同じ伝統がありました。
『葉隠』の冒頭「武士道とは死ぬ事と見つけたり」です。
これは切腹の事ではありません。己の欲に死んで、無私無欲で主君に仕え、民を守るという意味です。「滅私奉公」とも言われ、大切にされてきましたが、戦後は軍国主義と同一視され、社会から消えました。
それに代わり個人主義が広がっています。
自分の自由、権利が第一です。さらには自分の欲望実現が幸せと勘違いされています。欲と欲がぶつかり、対立して争い、弱肉強食の社会です。これでは平和な社会は生まれません。
100人全員が自分のためだけに生きているからです。それは不安定な社会です。常識で考えても分かることです。「100人いれば、一人一人が残りの『99人』のために生きる、それが平和な社会です」(苫米地英人)。
これが聖なる生き方です。■
2023/10/06 聖ホセマリア記念ミサ説教(文責:小寺神父)