- カトリックの教え
400年前に自由を「生きた」殉教者たち
1597年、豊臣秀吉が26人のキリシタンを長崎の西坂で処刑した「日本26聖人」は知られていますが、それから25年後の1622年に同じ場所で55人が殉教したことは、あまり知られていません。「元和の大殉教」です。今年は400周年に当たり、明日の9月10日に祝われます。命がけで信仰を守った点が称賛されますが、今日は違った角度から見てみましょう。それは、「お上」と呼ばれた徳川幕府の決定に対して、ただの一庶民が自己の信念を貫き、「公」に対する「個」の立場を世間に知らしめたことです。それは文字通り命がけの営みでした。命に代えて信念を通しました。利害や世間のしがらみ、また誘惑に打ち勝ち「正しいこと」「信じること」を優先しました。そこに生きる価値を見出したからです。このように国家より個人の信仰や信念を優先する姿こそが本来の「個人主義」でした。
400年前の日本で、民主主義とか自由という概念がない時代に、真の自由を生きた人が何十人、何百人、何千人もいたことに感嘆します。ところが、現代社会では個人主義が根付いたように見えますが、信念を命がけで貫く人が少なくなってきたように見えます。いつの間にか中身が入れ替わり、自分の欲望を満たすだけの「個人主義」に変貌してしまいました。この欲望個人主義は、自己の信念を貫く生き方と真逆になります。「自分」を「社会」より上に置いて生きているつもりで、知らない間に何かに隷属し、あるいは依存してしまいます。なぜなら、欲望が求めるのは、自分の外にあるからです。お金、快楽、権力、服、アルコール、ギャンブルなど、すべてです。これらを第一に生きるなら、必然的にこれらの奴隷になってしまいます。
キリシタンたちは、命に代えても守るべき信仰を持っていました。この生き方を現代に当てはめるなら、「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という世間的な生き方に対して、自己の良心に忠実に生きること、と言えるでしょう。学生時代は比較的易しいでしょうが、社会人になると利害関係や人間関係が複雑になり、良心に忠実に振る舞うことが難しくなります。良心に反しても会社に従い、上司に従うことが「大人」の振る舞いと言われたりします。とんでもないことです。良心に従って行動する勇気を持った人が一人でも増えれば、それだけ社会はよくなります。あなたも400年前の殉教者たちに倣い、命に代えても惜しくない、そんな価値あるものを見出し、良心を曲げずに生きて欲しいと願っています。■2022/09/09 高校2年生説教より(文責:小寺神父)