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人間は「祈る」生きもの
目は見るため、耳は聞くため、知性は真理を探究するため、意志は人を愛し、神を愛するためにあります。そして心は神に憧れ、祈るためにあります。神は自然を通して人間に語りかけています。自然は神について書かれたもう一つの書物です。人間は夜空を見上げて神について考え、祈って来ました。今日は七夕です。子どもの頃、願い事を短冊に書いて笹に、神に祈ったことがあるでしょう。それは子どもっぽいことではなく、古(いにしえ)の人々の生き方を反映しています。大人になれば大人の仕方で祈れます。今晩、久しぶりに夜空を見上げるのもいいでしょう。神の方へと導かれるでしょう。
現代人は、都会の雑踏に紛れ、喧騒の中で生活しています。コンクリートの壁に囲まれて、パソコンやスマホのばかりを見つめています。これでは、神に祈ることは難しいでしょう。現代人は「祈る」力をほとんど使っていません。青空を見上げたり、月や星空を見上げたりしましょう。目を閉じて沈黙の時間をつくり、神に想いを寄せましょう。こうして祈る習慣を身に付けてください。祈りは宗教の特権ではなく、誰でも出来るし、誰でもしなければなりません。人間が人間らしく生きるために必要不可欠です。人間は祈りによって真の人間になれるのです。なぜでしょうか?
人間は他の動物と違い、時空を超えることができます。永遠について考えることが出来るし、死後の世界「あの世」に関心があります。宇宙の始まりや終りにも興味があります。それが人間です。ところが、お金や権力や欲望を満たす楽しみばかりに心を奪われると、「この世」の物的な世界に閉じ込められてしまいます。これでは、霊的な生き方は無理です。人間は「この世」を超えた霊的な生き物ですから、霊的な生き方によってのみ、あるべき人間の姿になれます。物的な世界から解放される唯一の道が「祈り」なのです。
雄大な宇宙を見れば、自分がちっぽけな存在だと痛感します。自然の美しさを見れば、自分の心の弱さや醜さを思います。自然には神の「真、善、美」が映し出されています。人間は自然を通して神と向き合います。特定の宗教によってではありません。すべての人に通じる宗教心が備わっています。人間は「祈る」生きものなのです。祈るための沈黙の時間をつくりましょう。神に祈ることで、ちっぽけな自分が神の真善美を理解し、神と繋がる偉大な側面に気付かされます。そして、生き方にまっすぐ一本の軸が定まるのです。■
*2023/07/07 高校1年生への説教より(文責:小寺神父)