『みんなのぶどうの木』 ~名前の由来~


   『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
    人がわたしにつながっており、わたしもその人に
    つながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』

(ヨハネによる福音書 15章 5節)

 この言葉はイエス・キリストが最後の晩餐の席で弟子たちに語ったものです。時間があまり残されていないことをよくご存知だったイエス・キリストは、まだ伝え残していた大切なことを弟子たちに言い残そうとしました。「何があっても私から離れないように、豊かに実を結ぶために私にしっかりつながっていなさい。」と弟子たちに話しかけました。
  そして、この言葉は今の世界に生きる私たちにも語られているのです。本学園に関わる全ての人が、しっかりと幹につながり、豊かな実りをもたらすように、との願いを込めこのコーナーを『みんなのぶどうの木』と名付けました。


本校では、毎日の生活の中で、特に注意して果たしていく徳目を毎月決めています。生徒のみならず、教職員も意識して、それぞれの年齢と立場にあった目標を掲げています。各月のモットーは下の表の通りです。

各月のモットー
一学期 二学期 三学期
4月 礼儀 9月 責任感 1月 清貧
5月 敬愛 10月 誠実 2月 剛毅
6月 勤勉 11月 秩序 3月 感謝
7月 友情 12月 寛大    
夏休み 英雄的瞬間        

*以下の本文は学校新聞『たけうま』からの引用です


令和3年度
4月『礼儀』

 礼儀は対人関係での気配りや敬意、慎みの気持ちにもとづく行動の規範、と説明することができますが、それが表面的なものではなく、心のこもったものであればあるほど人間関係はより良好になっていくことでしょう。心というものは目に見えないものですが、その大切さは言うまでもないことです。ところで、本校では小学生から教職員まで、登下校時や機会がある毎にお御堂(ミサを行う場所)におられる神様に挨拶をしに行きます。普通はお辞儀をしたり十字を切ったりして足早に挨拶をするのですが、時にはゆっくりと立ち止まって、あるいは跪いて沈黙のうちにお祈りしている児童生徒や教職員の姿を見かけることもあります。それは見えない神様への敬意であり、信頼の現れだと思います。目に見えない神様とこの私が心の中で触れ合っている瞬間と言うこともできるでしょう。神様との敬意と親しさに満ちた関係性は、必然的に人間関係にも現れていくと思います。この4月、新たな気持ちで神様との親しさに成長することができればと思います。


令和2年度
3月『感謝』

 コンビニでおにぎりを110円で買いました。でも、よく考えてみれば、おにぎり自体の値段は「ただ」です。なぜでしょうか?お米を育てた人、海苔を採った人、ご飯を炊いて握った人、それを包装した人、工場からお店まで運んだ人、それを売る人、それぞれ働いた人にお金を渡すと、代金の110円すべてがなくなります。結局、おにぎり「そのもの」は無料なのです!あらゆる食べ物は、「自然の恵み、労働の実り」です。だから食事をする前に「いただきます」と感謝をします。自然を創った神と、働いてくださった人に感謝しているのです。
 コンビニのおにぎりは、神様からのプレゼント(自然)と人間の仕事でできていました。おにぎりに限らず、全てのものは人間と神の共同作品です。身の回りのものをもう一度、見回してください。鉛筆、ノート、着ている服、座っている椅子、学校の建物など、世界は神様の贈り物と人間の仕事でできています。お金を払ったから自分の「もの」だと勘違いしがちですが、お金は働いた人に払っているのです。「もの」自体は無償の恵みです。ただで神様からいただきました。だから、何でも感謝しないといけません。
 今、環境破壊がすすんでいます。後戻りできる最後のチャンスです。何もしないと手遅れになります。こうなった原因は自然を単なる資源として考え、経済的な価値しか見なかったからです。「自然は神からの貴重な恵みである」という観点が抜け落ちていたのです。地球を守るために、科学技術だけでは足りません。自然を神から預かった大切な宝と思い、資源を私有せず、次の世代に伝えたいという愛が必要になります。ミサは、「感謝の祭儀」と訳されます。その中で「大地の恵み、労働の実り」と唱えます。年度末を迎えましたが、この一年を感謝で締めくくりましょう。


2月『剛毅』

小学校では、いよいよ縄跳び大会が近づいてきました。大会が近づくと、いつもある卒業生のことを思い出します。
この卒業生は、難しい跳び方や三十秒で何回跳べるかといった課題を他の児童が次々とクリアしていくなかで、抜きん出て縄跳びが上手なわけではありませんでした。最初は二重跳びも得意ではなかったと思います。ただ、彼は大会を控えたシーズンが終わっても、黙々と練習し続けていました。また、縄も二重跳びで最も縄を回し易い、頭上ギリギリの長さのものと、あや跳びや交差跳びで使う縄との二種類を常に用意し、練習していました。私が知る限り、縄を使い分けるのは彼が最初でした。
そして、ある年、ついに彼は三十秒での二重跳びの回数で校内記録を達成したのです。これは、彼のこだわりの賜物、努力の結果だと思います(なお、記録は現在塗り替えられています)。
「意志、活力、模範。果たすべきことは、ためらわず、人目を気にせず、果たしなさい。」「障碍を前にして、成長しなさい。主の恩寵が不足することはない。」(聖ホセマリア・エスクリバー)
今月のモットーは「剛毅」です。何か上手くいかないことがあったらあきらめてしまったり、二~三日続けて無理だと思ったことはないでしょうか。私はこうした類のものを沢山持っています。これを機に、今月はその中の一つと向き合ってみようかと思います。


1月『清貧』

今月のモットーは「清貧」です。ものを大切に使う、長持ちさせる、無駄なものを買わない、ものに執着しないなどの徳の習得を目指しています。
ものを大切にする第一歩はものに名前を書くことではないでしょうか。学校にはいろいろな落としものがあります。名前が書いてあれば、すぐに持ち主に返すことができます。しかし、名前のないものは、本人が探しに来ない限り返すことができません。持ち主を探すために各教室に回覧することもありますが、それでもわからないことがあります。そのため、まだまだ使えるのに落とし物箱に入れられて、やがて処分されることになります。落としものたちからすると、この終わり方は、かなり「無念な」終わり方と言えるでしょう。
物を大切に使って、長持ちさせることも「清貧」の大切な要素です。しかし、ものを大切に扱えるようになるには、ある程度、心身が成長してないといけないようです。低学年のときは、ものをしっかり持つことができなかったり、周りが見えていなかったり、落ち着きがないために、ものを壊してしまうことがあります。しかし、成長するにつれてだんだんていねいに扱うことができるようになってきます。ですから、ものを大切に扱えるかどうかで、その人の成長の度合いがわかるとも言えます。ものを乱暴に扱っている自分に気づいたら、これは自分が成長する機会だと思って、もう少し優しくていねいに接するようにしてみましょう。


12月『寛大』

今から数年前、私は司祭になるための勉強をスペインでしていました。ある時、普段着の安い服を探していたのですが、一緒に勉強をしていた仲間が「Zaraがいいよ」と教えてくれました。当時私には初めて聞く名前だったのですが、今では日本でも有名になっています。そのZaraの創業者がスペイン医療の改善のためにといって全国の病院に合計380億円を寄付したというニュースを聞いたことがあります。なんと寛大な行為でしょう。
 ところで聖書には次のような話があります。ある日イエス様は神殿の階段に座って多くの人に教えを説いていました。そのすぐ近くには神殿に巡礼に来ていた人々が賽銭を置く台があり、時々金持ちがやってきては多額のお金を置くたびに近くでどよめきがおきていました。そんな中一人の貧しい未亡人が小銭を2枚置いたのです。それを見て嘲笑する人がいましたが、イエス様は言いました。「この婦人は誰よりも多くを捧げた。なぜなら持っているすべてのお金を置いたのだから。」この女性はその日の食費とすべきお金まで捧げていたのです(ルカ2045節参照)。寛大さは、実は量では計れません。心のあり方にかかっています。小さなことでも大きな愛を込めて行うなら、それは神様の前にとても寛大な行為となるのです。聖書の中に出てくるあの貧しい婦人は、目には見えない神様にできる限りの愛を示したいと思っていたのでしょう。『万事を神の愛のために行いなさい。そうすれば、小さなことなど存在しない。万事が偉大である。』(道、813番)。


11月『秩序』

大きな石を置く!

 社会で生きていくためには、小さな決め事をたくさん守らなくてはいけません。それをしなければ何事も実現しません。しかし、それに追われて肝心の仕事自体が疎かになれば、本末転倒、仕事の実りは生まれません。確かに「決め事」を忠実に行えば、人生で大きな失敗はしないかもません。でも、失敗しないことが人生の目標でしょうか?そんなはずはありません。自分は何をしようとしているのですか?目的は何ですか?それこそが一大事です。
 
 面白い実験があります。空っぽの容器に石を入れる実験です。大きな石、小石、砂利、砂があります。まず大きな石を入れます。まだ隙間があります。そこへ小石を入れます。まだ隙間があります。そこへ砂利を入れ、最後に砂を入れます。すると場所を無駄なく埋めて、容器はいっぱいに詰まります。しかも、大中小と揃い秩序があります。その逆をすると、どうなりますか?最初の砂でいっぱいになり、大きな石は入れたくても入りません。忙しいけど無秩序な状態です。
 
 この容器は人生を表しています。目的をしっかり見つめないまま、日々を忙しく過ごすと、いつの間にか「やらされている」作業、つまり砂でいっぱいです。肝心の大きな石が入る場所がありません。砂のように思える雑用でも、それは大きな仕事と繋がっています。人々に役に立つため、奉仕するための仕事です。大きな石と砂がしっかり繋がっているのです。心に志という大きな石がなければ、「砂を噛むような」ただの雑用に思えるでしょう。


10月『誠実』

先の読めない時代VUCAVolatility(変動性・不安定さ)、Uncertainty(不確実性・不確定さ)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・不明確さ)という4つのキーワードの頭文字】といわれる現在、これまで正解がある程度見えていた中で、頑張ってきた人たちにも様々な場面で、多くの不安を抱くようになったと思います。
しかし、困難はいつの時代にもあるなかで克服し、更なる価値を生み出しています。では、先の読めない時代に私たちはどのようなものを身につければいいのか。その一つとしてあるのが「誠実」ではないでしょうか。
ある面白い研究で、世界で勝ち続けているコーチや指導者の口癖は「I dont know」「I cant do it」だそうです。優れたリーダーは全てを理解している者だと思われがちですが、実は「知らない」「できない」と言えるリーダーのほうが結果を出している。
なぜかというと信頼と深く関わっているからそうです。普段から背伸びせずに「分からない」と言っていると、部下も「この人は自分が分からないことを正直に言える人だ。だから、自信を持って言うときには本気で信じているときだ」と認識するからそうです。
誠実であることは、言い方を変えれば「正直」であることだと思います。
客観的に自分を見つめ、欠点や弱さを認める又は正直に伝えることではないでしょうか。本来の自分らしさを見出すことができると思います。そこに、先を読めない時代のヒントが隠れているのではないでしょうか。


9月『責任感』

 今年は新型コロナの影響で振り回される日が続いています。国や自治体も様々な指針を決定するに当たって、その責任の重さから担当者の心労は如何ばかりかと思います。そういった責任が重い仕事にが価値があると思え、自分たちのやっていることにどれほどの価値があるのかなと感じる場合があるかも知れません。
 聖ホセマリアは仕事の聖化を説明する中で、神様から見た人間の行いの価値は、どれだけ愛を込めてその仕事を行ったかによると教えています。神は仕事の価値をそれを実行する人の責任感の度合いで測られるとも言えるでしょう。
 『石ころ』という山本周五郎の短編があります。これは何度も戦に出陣しているにも関わらず、一つも華々しい成果を上げることなく平凡な石ころばかり拾い集めてくる男の話です。石を集めてくる理由は、『家を建てるにも、城を築くのにも、こういう石は無くてはならないのだ、(中略)人の目にはつかないがこういう石が隅々にじっと頑張っている。決して有る甲斐がないというようなものではないんだよ』『おれはこの素朴さに学びたいと思うよ』と妻に説明しています。大きな価値を認められなくても、人々がそれぞれの責任を果たすことで社会が成り立っており、そこに大きな価値を認めることができるということでしょう。これには先ほどの聖ホセマリアの教えに通じるものがあると思います。
 今月のモットーは責任感です。毎日の自分にまかされた仕事(勉強、係、手伝い、頼まれごとなど)を責任感を持って丁寧に実行して行くことが、私たちの周りを回していくことになると思います。


7月『友情』

これまで生徒から「親友と言える友達がいない」「クラスに友達がいない」といった相談を受けたことがあります。そんな時は「焦ることないよ」と伝えます。友達はいる方が楽しいし、助けられることも学ぶことも多い。人生が豊かになることは間違いありません。しかし、友達は人間関係の一つであり、出会いには「縁」「タイミング」というものも影響すると思うのです。
以前担任していた生徒の話です。気の合わない二人の生徒がいました。お互いそれが分かっていて、同じ部活に所属しているのにほとんど口を利きません。先生が止めに入るほどの大ゲンカをしたこともあります。その関係は卒業まで変わりませんでした。ところが、卒業して10年以上たった現在、二人はしょっちゅう食事に行っています。一方が結婚する時にはもう一人が友人代表としてスピーチし、同級生のお祝いメッセージの動画を作成するような仲になりました。昔のことを尋ねると「中学のころは〇〇のこと大嫌いでしたよ。それなのに不思議ですよね」と言います。なぜ仲良くなったか本人たちも分からないそうです。
友情は愛情の一つのありようです。愛情は自分の損得を考えずに相手を受け入れることから始まります。気の合わない人を受け入れるのは難しいことですが、それを心がけている人にはいつか必ず人との「縁」が訪れます。先の卒業生も年齢を重ねて互いを受け入れられる心の広さを得たのでしょう。損得勘定ではない人間関係はきっと人生を豊かにします。


6月『勤勉』

「勤勉」とは、勉強や仕事に一生懸命励むことです。勤勉の対義語は「怠惰(たいだ)・怠慢(たいまん)」。仕事や勉強をサボることいい加減にやることです。外国人からは、日本人は真面目で勤勉だというイメージがあるそうです。確かに日本人にとって勉や努力は美徳とされています。
勉強や仕事に励み、努力することを継続できる人とできない人の違いは何でしょうか。それは、明確な「目標」や「目的」があるか無いかだと思います。私たち人間は、目標や目的がないままに、ただ頑張り続けるというのは無理です。
真面目で努力することは、十分価値のあるものですが、現代ではそれだけなら物足りないと感じられているのではないでしょうか。ただ単純に同じことを繰り返す。ただ単純にやるべきことを実行する。真面目で努力する人なのかもしれませんが、何かが足りない気がします…。何が足りないのか…それは「効率を上げるための工夫」や「より成果を出すための試み(チャレンジ)」ではないでしょうか。このような工夫や試みを取り入れながら勉強や仕事に一生懸命に励むことが現代の「勤勉」であり、このような勤勉さを持っている人が現代社会に求められる人材だと思います。世界中の成功者や偉人と言われる人たち、その多くはきっとこのような勤勉さを持っていたに違いありません。
6月のモットーは「勤勉」です。目標・目的を明確に持ち、工夫や新たな試みを取り入れながら勉強や仕事に励んでみてはいかがでしょうか。


5月『敬愛』

 日本を含む世界中が、かつて経験したことのない大きな危機に直面しています。これまで普通に学校へ行き、友だちと遊び、休日には家族で食事や旅行へ出かけることができましたが、それができないばかりか、愛する家族や知人・友人の健康や命までもが危険にさらされる状況です。私たち一人ひとりの尊い命を敬い愛することができるよう、共に祈りましょう。
「新型コロナウィルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
『いつくしみ深い神よ、新型コロナウィルスの感染拡大によって、今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。
病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の終息に向けて取り組むすべての人、医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。
亡くなった人が永遠の御国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように。
不安と混乱に直面しているすべての人に、支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神よ、私たちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、世界のすべての人と助け合って、この危機を乗り越えることができるようお導きください。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
希望と慰めのよりどころである聖マリア、苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。』(2020年4月3日 日本カトリック教会司教協議会 認可)


4月『感謝』

 経営の神様と呼ばれた松下幸之助氏(Panasonic創業者)のエピソードを聞いたことがあります。ある大学教授が雑誌の企画で幸之助氏と対談することになっていたのですが、既に高齢になっていた幸之助氏は体調を崩して入院していました。当然中止になるものと思っていたところ、「以前からのお約束なのでおいでください」との連絡が入りました。無理されなくてもいいのに、と心配しつつ病院に着くとパリッとスーツを着こなしネクタイもきっちりとしめた幸之助氏が現れます。病気で入院していたにも関わらず、そして財界では無名の自分であるにも関わらずここまで心遣いを示される幸之助氏に感銘を受けたというお話でした。
 礼儀の本質は相手への敬意にあると言えます。そのためには自分は何者で、目の前にいる相手はどなたなのかを深く理解しておく必要があります。ところで、聖ホセマリアは「自分は惨めな罪人である」ということを度々言っていました。自分を卑下しているわけでも言葉の上での単なる言い回しでもなく、心底そのように感じていました。「自分は惨めな罪人である」その言葉に私も深く共感します。では他者についてはどう見るのか?聖ホセマリアは「その(他者の)体にはキリストの御血が脈々と流れているのが見える」と言っていました。キリストは目の前にいる「その人」のために十字架の苦しみを忍ばれた、その人のために命をかけるのをキリストは良しとされたという意味です。であるならば自分はその相手に対してどう振る舞うべきなのか?そんなことを聖ホセマリアは繰り返し祈りの中で振り返っていたのでしょう。聖ホセマリアを知る人は、自分に対する心底からの敬いを感じ取っていました。


指導司祭:硲恵介
本校では、月に一度、8時25分から10分間、中学生が全員御聖堂に集まり司祭のお話を聞き
詳しくは以下の記事を御覧ください。


令和3年度
4月のお話 POSSUMUSとは

 新しい年度がスタートしました。新入生の皆さん、入学おめでとうございます。2,3年生の皆さん、新しい学年での役割をしっかり意識しながら頑張っていきましょう。
 
 さて、精道三川台ではいくつかのキーワードを繰り返し皆さんに伝えてます。例えば、「英雄的瞬間」や「自由と責任」、「POSSUMUS」。
 
 今日は「POSSUMUS」についてお話ししましょう。これはラテン語で、私達はできます(Yes, we can do it.)、という意味です。
 
 ここでいう私達というのは、私と誰のことを指しているのでしょうか?色々な解釈の志方があります。
 
 1つ目は「私と仲間たち」、つまり、一人ではできないけれど仲間たちと力を合わせていけばできることがあるという意味です。それはチームスポーツをしている人にとっては個人的にも体験したことがあることでしょう。チームワークがうまく機能するとびっくりするくらいの結果が出ることがあるものです。
 
 2つ目は「私と指導者(親・教師・コーチなど)」、つまり、指導者から受けるアドバイスをしっかり自分の物にしながら何かに取り組んでいくとき、能力や技術がどんどん伸びていく状態です。我流ではどうしても限界があります。客観的に見て、そして経験に基づいてなされる指導者からのアドバイスは、一人ではできないことを可能にする力を持っています。
 
 そして3つ目の解釈は、おそらく誰も考えたことがないものでしょう。それは「私と神様」、つまり祈りのうちに神様と私が豊かに結ばれているとき、自分の力だけでは成し得ないことが可能になります。例えば、どうしようもない困難と思えるものに直面しているときでも、祈りのうちに神様と私が豊かに結ばれているならば、決して一人ではないし例え直面している困難が人間的に克服不可能であると思えても、神様、あなたならおできになるでしょう!と信頼を寄せていくことができるのです。そうして、いつの間にか心は軽くなり、希望をもって前に進んでいくことができるものです。
 
 これから始まる新しい一年、「POSSUMUS」つまり、私と神様が豊かに祈りのうちに結ばれている状態で、常に信頼と希望に満たされて前に進んでいくことができればなと思います。


令和2年度
2月のお話 他者と関わること

今日この頃、私たちは家族以外の人と会ったり食事をしたり、物理的に関わるのがとても難しい状態になっています。感染拡大予防の観点から、それは必要な対応の一つですから。
 
そんな中、たくさんの人と話していて思うのは、「他者と関わること」が制限されてくると精神的に不安定になってくる人が割とたくさんいるということです。それも肯けます。かつての日常生活で当たり前だったことが当たり前ではなくなっていること、自分の世界が狭まってしまったように感じられること、自分の知らないことが増えて想像だけが煽り立てられてしまうこと、などなど、「他者と関わること」が制限されるとネガティブなことが色々と引き起こされてきます。「自分という殻に閉じ込められていく」と言ってもいいかもしれません。
 
改めて次の事実に思いが及びます。「人は人の間にあってこそ人間になる。」私たち人間は、他者と関わっていくときに成長し人間としての完成に近づいていく。人は一人では生きていけない。
 
最近私が個人的に関心を持っているのが、「自分という殻に閉じ込められてはいけない」、「周りの人たちのことをもっと知らなければ」ということです。そう思っている時にふとある動画を目にしました。それは東京近辺でホームレスをしている人たちに寄り添いながらインタビューをしていくというものでした。それはなかなか衝撃的で、彼らについて自分はほとんど何も知らなかったし、彼らがどのような人たちで、どのような経緯で路上生活をするようになり、現在どのような生活をしているのか、考えてもみたことがなかったのです。漠然と存在することだけを感じていた、という状態です。無関心だったと言えます(「愛の反対語は憎しみではありません。無関心です。」マザー・テレサ)。
 
「知りたいと望むこと」「関心を持つこと」これらは自分の殻を突き破る一つの手段だと思います。このような状況でも、心を他者に開いて(関心を持ち)、その人のことを知りたいと望むこと。それは普段何気なく生活を共にしている友人・家族についても同じです。レッテルを貼ったり、心の中で勝手に決めつけていたりすることがありますが、心を開いて「知りたいと望むこと」から始めることができるかと思います。


1月のお話 
イエスの誕生物語

 明けましておめでとうございます。今年も一年間、よろしくお願いします。
 
年明けのニュースから、私たちの目を引き付けていたものの一つはコロナ関連のものでしょう。一年前には想像もしなかったことです。もちろん、これまでもたくさんの疫病に関してのニュースを聞いたことがありました。エボラ出血熱、マラリア、サーズ、マーズなど。でもそれらはどこか遠くの国で起きている出来事だと考えていました。まさか自分の住んでいる街で、今日の感染者は何人だろう、などと考える日が来るとは。
 
 さて、先日のクリスマスの時期に教皇フランシスコが次のようなTwitterを出しました。

世間ではクリスマスは過去のものかも知れませんが、カトリック教会では今も降誕節といってイエス様の誕生をお祝いしています(救い主の誕生は前代未聞の出来事だったわけですから、時間をかけて感謝しお祝いするのです。)教皇様は「その意味まで考えることを忘れないようにしましょう」と語りかけておられます。
 
イエス様が生まれたのはベツレヘムという小さな村の馬小屋でした。母親であるマリアと父親のヨセフにとって、全く予期しない出来事の連続の日々でした。予期せぬ懐胎、予期せぬベツレヘムへの旅、予期せぬ人々の冷たい態度(彼らのために宿屋はありませんでした…)、予期せぬ羊飼いや東の国の博士たちの訪問…。まだまだ数え上げることがます。そんな中で彼らは右往左往したのでしょうか?いいえ、落ち着きを失うことなく、新しい出来事を喜んで(もちろん苦労はしました!)受け入れていたのです。なぜそれができたのか?答えは実はとても単純です。「そこに愛があったから。」マリアとヨセフ、そして幼子は愛に包まれていたのです。幼子は「愛そのものである神」(ヨハネの第一の手紙 4章16節参照)でしたから。

 私たちが何かをしてあげるのではなく、まずイエスが自分自身を無償で私たち一人ひとりに与えてくれるのです。その出来事を本当の意味で味わいたいものです。
 不確かなことの多い時代ですが、過ぎ去らないことも確かにあるのです。

12月のお話 クリスマスとは

12月になりました。12月と言えば、年の暮れですので、大晦日や年末を思い出すでしょう。でも、その前に何か大切な出来事があります。終業式もそうですが、別のことです。そう、クリスマスです。では精道三川台小学校出身ではない1年生の人に質問します。というのは今からする質問の正しい答えは、精道三川台小学校で勉強した人はよく知っていることですし、2年生や3年生の先輩たちはすでに勉強して知っていますから。では質問、「クリスマス」と言えば、何を頭に思い浮かべますか?(「ケーキとかプレゼント!」と答えてくれました。)ありがとう、そう、普通に考えるとそうですよね。サンタクロースとか、ケーキ、おいしい食事、プレゼント交換、そういうものが頭に思い浮かぶと思います。でも、それは実は2次的なことなのです。
 
なぜお祝いをするのか?その理由はなんでしょうか?クリスマスと言えば真っ先に思い出さないといけないのは「イエスキリストの誕生」ですね。考えてもみてください。誰かの誕生パーティーに招待されて出かけて行った時、食事とかケーキとかプレゼントにだけ気が向けられて、肝心の誕生日を迎えた人のことを放っておいていいものでしょうか?それと同じです。クリスマスはイエスキリストの誕生をお祝いする日です。
 
そして、イエスキリストはどんな場所で生まれたのか?寒い馬小屋でした。神様のなさることには全てメッセージが込められています。無意味なものは何一つありません。馬小屋で生まれるという出来事にも、神様から私たちへの力強いメッセージが込められています。ある小学生の人が言いました。「それはね、先生、イエスさまがみんなにギュッと抱きしめてもらいたいからだよ。」なんと素晴らしい答えでしょう。馬小屋には壁がありません。誰でも簡単にイエスさまの姿を見ることができます。近づくことができます。寒い馬小屋ですが、マリアさまとヨセフさまに囲まれて暖かい眼差しを受けている飼い葉桶の中で眠っているかわいい赤ちゃんがいれば、誰でも近くに行って、頭を撫でてあげて、そしてできれば温めてあげたいと思うでしょう。そのような優しい暖かい気持ちを神様は私たちに期待しておられるのです。
 
クリスマスにプレゼントとして何かをもらうことではなく、何かをしてあげること。自分の身近にいる困っている人・寒そうにしている人・寂しそうにしている人に何かをしてあげる。「大丈夫?」「何か手伝おうか?」「そう言えばさあ」と声をかける、そういう小さな、でも心のこもった「心遣い」というプレゼントを差し出せるようなクリスマスの過ごし方を発見してもらえたら素晴らしいなと思います。


10月のお話 祈りの力 

この世界には目に見える力と、目に見えない力があります。
 
目に見える力、それは例えば重いものを持ち上げる腕力。昼休みにグラウンドにある藤棚のところである人と立ち話をしていると、近くにいた生徒の一人が藤棚を支えている鉄パイプにぶら下がって懸垂を始めました。腕をぴーんと伸ばした状態から、1回、2回、3回と懸垂をしています。すごい腕力だなあと感心しました。目に見えるはっきりした力です。
 
目に見えない力、それは何でしょう?いろいろあるかもしれませんが、私に一つ確実に言えることは、「祈りの力」というものです。目に見えないのでその力強さを体感するのはとても難しいものです。でも、あるフッとした時に明らかになるものです。
 
こんな詩を目にしたので紹介します。これは生まれつき足の障害を持って生まれた女の子の書いた詩です。とても考えさせられました。
 
神様への手紙  前田典子
 
神様 幼いころ わたしは/あなたにおねがいしました/何度も何度もおねがいしました/神様 わたしに足をください/自由に歩ける足をください/大きくなったらなおるんだって/そればっかり思っていたの
 
神様 幼いころ わたしは/あなたがきらいになりました/何度も何度もおねがいしましたのに/わたしの足は動かなくなった/いつまでたっても動かなかった/神様 ごめんなさい 動かぬ足と涙だけしか/なんにもあとは見えなかったの
 
神様 このごろ わたしは/あなたがすきになりました/たとえ足が動かなくとも/多くの友と愛する家族/自由な心と明日への希望
 
神様 ありがとう/あなたがわたしに何をくれたのか/やっとそれがわかってきたの/今、大きな声でいいたいのです/わたし…しあわせです…/神様 これからもよろしくね
 
(愛知県教育委員会発行『みんな友達』)
 
とても単純に、率直に、自分の言葉で神様とお話をしている女の子。それは立派な祈りでした。くる日も、くる日も、きっとこの女の子は神様に祈り続けたのでしょう。その時、何が起きたのか?目に見える変化は、…ありませんでした。でも、目に見えない、とても素晴らしい変化が現れます。心の変化です。不満、悲しさ、悔しさ、そんな気持ちでいっぱいだった心が、感謝、夢、希望、喜びでいっぱいになっていきました。そしてそれは決して過ぎ去らない喜びです。なぜなら神様がくださったものだから。
 
祈りは何と力強いのでしょう!
 
私たちも、くる日も、くる日も、祈り続けることができる人になりたいものです。目に見える変化がないにしても!


9月のお話 精霊流し

 長崎の夏の風物詩の一つに「精霊流し」があります。私が初めて長崎で夏を過ごしたとき、昼間からめったやたらと爆竹の音がする日があってびっくりしました。夏休みだし、元気な町の不良少年たち(?)が遊んでいるのかなと思っていました。これがお盆の伝統行事、「精霊流し」だったと知るのはもう少し後になってからでした。
 
 ある暑い夏の日のお昼間、長崎の狭い裏道を若い夫婦と小さな子供たち、そしておじいちゃん、おばあちゃんと思わしき家族が小さな船の形をしたものを大切そうに運んでいました。中学生くらいの子はちょっと躊躇しながら恐る恐る爆竹に火をつけようかどうしようかと迷っています。若いお母さんが「いいのよ、心配しないで、今日はいいのよ」と声をかけていました。小学生くらいの子は、やっぱり遠慮がちにときどき小さな音で鐘を鳴らしていました。亡くした家族を、それぞれが、それぞれの思いでお見送りしているのだなあ、と思いました。
 
 人はいずれ亡くなります。例にもれず、すべての人がその時を迎えるわけですが、死の後、人はどこへいくのでしょうか?もし死のあと無に帰すのであれば「精霊流し」も生まれなかったことでしょう。
 
 カトリック教会は「死において、神は人間をご自分に呼び寄せられます」(『カトリック教会のカテキズム』 1011番)と教えます。神さまと顔と顔を合わせて出会うとき、それが死です。未知の出来事ではありますが、信頼を込めて神さまに祈り続けた人には何とも言えない素晴らしい瞬間であることでしょう。
 
 教皇フランシスコがある日のツイッターでこんなことを言っておられました。

 無条件で、ただただ私という人間を愛してくださる。何と素晴らしいことでしょう。あれやこれやの能力などではなく、そのままを愛してくださる。そのような神さまへの信頼を持って毎日を過ごすことができればどんなに良いことでしょう。「愛は行いである」と聖ホセマリアは教えていました。私たちの行いが、神さまへの感謝と信頼にもとづいたものであれば、きっと私たちも「愛には愛をもって応える」ことができるでしょう。そして死すらも恐れることはないと知るようになるでしょう。
 

指導司祭:小寺左千夫
本校では、月に一度。、8時25分から10分間、高校生が学年ごとに御聖堂に集まり司祭のお話を聞きます。
詳しくは以下の記事を御覧ください。


令和2年度

*4,5,6月はコロナウイルス感染症拡大防止のため説教を休止


「おかげさま」の人生

来週、いよいよ卒業式を迎えます。今日は卒業感謝ミサです。なぜ感謝を捧げるのでしょうか?3年間、努力をしたのは他の誰でもない君たち自身です。自分を褒めてあげるなら理屈が通りますが、感謝する理由が分からないかもしれません。学ぶ努力をしたのは君たちですが、教える人がいなければ学ぶことすら出来ませんでした。学校という教える場があったのは、君たちの努力以前の問題です。誰かが場所を準備してくれていたのです。それは聖ホセマリアのお蔭です。その場所に通わせて下さったのは親のお蔭です。一つのことを成し遂げるのは、めでたいことです。有難いことです。だからお祝いをします。一人の力では何一つ実現しませんでした。たくさんの善意が集まって成し遂げられたのです。中でも最大の善意は、神の計らいです。「神のおかげ」で完成したのです。私たち一人一人の努力も必要ですが、それが実を結ぶのは神の働き(摂理という)なのです。「おかげさまで、卒業できました」だから、めでたくもあり、有難くもあるのです。
 
「祭壇に捧げものをする(ミサのこと)前に、兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5.24)。このミサも卒業式もお祝いであり、祝祭です。真に祝うためには、心に曇りがあってはなりません。祝祭とは第一に神に感謝を捧げることだからです。これまで気付かなかった恩に心を向けましょう。悪意はなかったとはいえ、知らずに過ごしたことは一種の「恩知らず」ですから、神と和解しましょう。祈りで恩返しをしましょう。祈りは、ただの儀式ではなく、思いが込められた心の活動の一つです。卒業という一つの節目を機会に、感謝の思いを祈りにして神とお世話になった方々に届けましょう。
 
ここを卒業すると、多くの人にとって祈る機会がなくなるでしょう。世間は神を考えず、経済的な効率という価値観で動いているからです。神を無視した活動は人々を幸せにしません。祈りを添えた働きが本当の実りをもたらします。だから、個人的に祈ることを続けて下さい。この聖堂のような厳かな場所がなくても、ミサのような神聖な式がなくても、祈る心を大切にしてください。君たちの心には神が住んでいます。今、君たちが静かに祈っているように、どこでも、いつでも祈れます。「おかげさま」の精神を忘れなければ、祈ることができます。最後に聖母マリアに感謝しましょう。祈る心を育ててくれたのは「マリア様のおかげ」ですから。■(文責:小寺神父)


信念が人生を拓く

高校三年生の時、奨学金を貰うために受けた面接で、忘れられない言葉があります。「あなたは、自分の信念で毎日休まずに続けてきた何かがありますか?」答えにハタと困り、窮しました。それまでの自分は、言われたこと、与えられたことを真面目に果たすことが良い生徒だと思っていました。しかし、自分から信念を持って取り組むことがなかったことに気付かされたのです。
 
受験生のみなさんは、与えられた課題を果たすだけでも精一杯かもしれません。志望の大学に入るためには仕方ないことかもしれません。しかし、人生は、それだけでは完成しません。言われたことを忠実に果たす優秀な学生でも、いずれ教授や先輩から「君は何をしたいのですか?」と問われる時がきます。その時になって急に考えても、自信を持って答えることはできないでしょう。
 
日ごろから「自分は何をしたいのだろう?」という問題意識をもって勉強すること、生活をすることが欠かせません。私は、あの面接官の言葉に衝撃を受け、日々考えるようになりました。しばらくして決心したのが、「毎日聖書を読んでみよう!」ということでした。世界中で多くの人が読んでいます。偉大なことを成し遂げた人たちも読んでいました。だから私もそこから生きる糧を得た思ったのです。途中で怠けたこともありますが、今でも毎日数分程度ですが、聖書を読むことを続けています。
 
神は私たちに「自由な心」を与えて下さいました。それは、自分から「したい」と望むことです。「自分は何があってもこれを成し遂げたい」という強い意志です。「念ずれば、花開く」(詩人:坂上真民)という言葉があります。その逆は「望まなければ何も始まらない」ということでしょう。世の中、自分の好き勝手にできません。多くは義務ですから。それらを仕方なしに嫌々するのではなく、信念を実現させる道に変えることができます。義務を活用して信念を実現させるのです。実際に、すべての義務は成長の糧になるものです。人生に信念を持つ人だけに可能です。信念は志(こころざし)と言い変えることも出来るでしょう。
 
この話が、皆さんへの最後の説教になります。「はなむけ」の言葉です。■(文責:小寺神父)*2021/02/19 精道三川台高校3年生への説教


ノーベル賞の医者も認めた聖母の奇跡

ノーベル生理学・医学賞を獲った医者アレキシス・カレル(1873-1944)は、無神論者で奇跡を信じていなかった。フランスのルルドで病気が治ったという噂が世界中に広まるのを苦々しく思っていた。「この奇跡の嘘を暴いてやろう」と決心して現地に乗り込み徹底調査した。その結果、多くは医学的に説明できるもので、奇跡ではないことを明らかにした。ところが、医学的に説明出来ないどころか、数は少ないが起こり得ない治癒を実際に目の前で見た。そして、信じた。
 
そもそも「ルルドの奇跡」とは、いったい何なのか?1858年2月11日、ピレネー山脈の麓の小さな村に住む、無学で貧しい少女ベルナデッタに、聖母マリアがご出現されたことから始まった。聖母が現れるなど、誰も信じるはずもなく、親も村人も少女がウソをついていると思った。それでも少女は出現した貴婦人の言葉に従い、2週間にわたって会いに出かけた。それを確かめようと村人も付いて行ったが、何も見えなかった。しかし、少女の様子が変わるのを目撃した。ご出現の三日目、少女は貴婦人の言われるままに手で土を掘り、湧き出た泥水で顔を洗い、そして飲んだ。多くの人が、この少女は頭が変になっていると思い、家に帰った。その後、そこから清い水が湧き出て、水たまりが一つの泉になり、小川に流れ出た。ある日、若い母親が死にそうな赤ん坊を泉に浸けると突然に回復した。火花が片目に入って見えなくなった鍛冶屋が泉で顔を洗うと見えるようになった。これらが噂になり、病人が訪れるようになった。それが今日まで続いて、年間500万人の巡礼者が訪れている。
 
さて、聖母の出現が「ある、ない」という議論より、何がもたらされたかを見ましょう。この奇跡の治癒をきっかけに、信仰を取り戻した人々が多く出ました。これまで祈らなかった人が祈り始めました。神の慈しみと憐みを身近に感じるようになりました。奇跡の泉に入って病気や怪我が回復した人々もいます。たとえ健康を回復できなくても、苦しみから解放されました。神が遠い存在ではなく、身近な方、家族のような親しみを持てる方に変わりました。聖母が私たちに伝えたかったメッセージは、まさにこの事だったのです。「マリア様の方を向きましょう」この言葉から始まる学校行事。ただの習慣ではなく、本当に聖母にご保護をお願いしています。その心を持てば、神が身近になるでしょう。■(文責:小寺神父)
*2021/02/12 精道三川台高校生への説教より


「汝の敵を愛せよ」-ノーサイドの精神-

米国の大統領選が終わりました。共和党と民主党が対立して、相手を中傷誹謗したり、デマ(フェイクニュース)を拡散したり、挙句は暴力で勝利を奪い取ろうとまでしました。その結果、国は二つに分断され、溝は埋めがたいほどに深まりました。両者とも米国を愛し、国のために戦いましたが、その結果、どちらも国を大きく傷つけるだけの結果になりました。今こそ声を大にしてイエスの教えを繰り返したいと思います。「汝の敵を愛せよ」。これは、実現不可能な理想を述べた言葉ではありません。人格を深め、人生の意味を読みとるために不可欠な指針となります。
 
「みんな、誰とでも仲良くしましょうね」という子供騙しや偽善を言うつもりは、毛頭ありません。人生には敵が現れます。敵と仲良くできるわけがありません。主義主張が違う人、物の見方、考え方が異なる人がいます。対立して当然です。ただ仲良くするのは偽善です。見せかけにすぎません。正々堂々と全力で戦うべきでしょう。しかし、人間そのものを否定しては、議論そのものが成り立たなくなります。自分が正義で相手が悪と決め付けるのは、ただの思い上がりに過ぎません。相手に対するリスペクトが大切です。これが敵を愛する第一歩です。
 
「敵を愛する」ぴったりのモデルがあります。ラグビーの「ノーサイド」の精神です。試合が終わると、普通は「ゲームセット」です。勝者と敗者が確定されます。しかし、ラグビーではセット(固定)されず、敵味方に分かれて戦っていた者同士が一つになって、同じ試合を作り上げた仲間になるのです。「ノーサイド」敵も味方もないのです。勝者も敗者もないのです。大切なゲームを作り上げた大切な仲間なのです。勝者は敗者に敬意を払い、敗者は勝者を称えます。敵はどこにもいません。ラグビーを愛する仲間がいるだけです。
 
 人生はゲームのようなものです。ラグビーなら90分で終わりますが、人生は何十年も続きます。だから簡単にゲームとは思えません。しかし、同じことなのです。永久の敵などいないのです。あなたの人生を彩り、あなたの人生を豊かにして、あなたを成長させてくれる大切な人生ゲームの敵に過ぎません。ノーサイドになれば仲間になる大切な人なのです。だからレスペクトします。そして、敵ながら同じ試合を営む人として大切にします。試合中に手を抜く人はよいプレイヤーとは言えません。尊敬も出来ないでしょう。スポーツにおけるライバルのように、人生と敵と向き合いましょう。ノーサイドの笛は神ご自身が吹きます。神の前に出る時、敵が仲間になりますように。そんな人生を送りましょう。*精道三川台高校3年生への説教より(文責:小寺神父)


馬小屋は人類の記憶を伝える

クリスマスが近づくと教会や家庭で馬小屋が飾られます。それは季節を彩る風物詩ですが、ほんとうは違います。人類にとって大切な出来事の記憶を後世に伝えているのです。例を挙げましょう。平和公園の像は何のために建てられたのでしょうか?観光客を集めるためではありません。今から75年前、原爆が落とされて一瞬にして7万人の命が奪われた悲惨な出来事を忘れないため、平和を築く覚悟を次の世代に引き継ぐためでした。奈良の東大寺の大仏は何のために建てられたのでしょうか?伝染病が猛威を振るい、人口の半分が死ぬという非常事態になり、人々は恐怖と不安で生きる希望を失ってしまいました。そこで聖武天皇は国を立て直し、民衆の心に平和と活力を取り戻すために一大国家事業として大仏建立を決心したのです。
 
馬小屋は、今から2千年前に中東のベツレヘムという小さな村でイエス・キリストが生まれた事実を伝えています。人類を救うために神が人となって来られた誕生の記憶を私たちに届けるためです。村はずれの貧しい家畜小屋に生まれたのです。それが再現されています。両親が望んだものは何一つありません。温かい部屋、ふかふかのベッド、真新しいゆりかご、など。欲しくないものなら一杯ありました。寒さ、貧しさ、冷たい仕打ち、想定外、落胆、など。これは、まるで不幸のオンパレードみたいです。私たちなら、不平や不満でいっぱいになることでしょう。しかし、馬小屋は別のことを教えてくれます。
 
馬小屋にしかない素晴らしいものがあったのです。それは宮殿にもありません。世界中のどこにもありません。それは、神の子イエスが生まれた!ということです。マリアもヨゼフも、物的には多くが不足していますが、文句を言いません。心は満たされています。救い主の幼子を見たからです。新しい命の誕生を喜び、祝い、神に感謝しました。心は平和でした。不平や不満で心を汚しません。ヨゼフはマリアを思いやり、マリアは心を込めてイエスの世話をします。こうして、不幸な馬小屋は世界中で一番しあわせな場所に変わりました。望みが満たされたから幸せなのではありません。神を心に受け入れたからです。
 
なぜ、救い主は馬小屋で生まれたのでしょうか?それは偶然ではありません。私たちへの確かなメッセージです。人間は快適な生活や豊かさを手に入れて幸せになるのではなく、貧しくても神を受け入れ、お互いが思いやる善意で幸せになります。そして、善意の人が豊かな人生を生きるのです。■
*2020/12/04 精道三川台高校1・2年生向け説教より(文責:小寺神父)


 君は、Violet Evergardenを見たか!

みなさんは、このアニメを見ましたか。(…別に見なくてもいいですよ。)とても良く出来ていて、いわゆる娯楽のアニメを超えた、もう文学になっていると感じました。暇つぶしで文学を読みません。人生とは何か?生きる目的は?人を愛するとは…?登場人物を通して何かを学びます。それが文学です。このアニメは、戦争で傷付いた主人公が、戦争から平和へと移る時代に生きた人々の苦しみや悲しみに寄り添い、想像もしなかった小さな幸せを紡ぎ出していく物語です。それを通して、人を愛するとは何か、自分は何のために生きていくかを考えさせられました。たかがアニメ、されどアニメです。ここまで人の心を動かし、生きる勇気を与えることが出来るのです。
これを制作したのは「京都アニメーション」です。そう、数年前に1人の男が自分勝手な思い込みで逆恨みして、ガソリンを撒いて火をつけて多くの死傷者を出した、あの会社です。あの時、このアニメが完成直前でした。すべての原画が、あの建物に保管されていました。幸い頑丈な金庫のお蔭で焼失を免れたのです。絵は残ったけれど、それを描いた多くの人が亡くなりました。残された人も、大火傷をしたり、心に大きな傷を受けたりしていました。なかなか立ち直れませんでした。そんな彼らを奮い立たせたのは、亡くなった同僚のために、このアニメを完成させることでした。「愛する人を失いながら、愛する人のために、絶望から立ち上がりました。」まるで、このアニメの主人公のように…。
興行収益ナンバーワンを狙ったわけではなく、最高の作品にして、それを亡くなった同僚に捧げたいという鎮魂歌(レクイエム)でした。その思いは届きました。たくさんの人が、このアニメを見て、心動かされました。アニメを描く、という仕事を通して、倒れた人に立ち直る勇気を与え、疲れた人を元気づけ、悲しむ人を慰めました。自らの仕事で、人々の魂に触れたのです。仕事に込めた思いが届きました。戦争がないというだけの平和で、人間は幸せになりません。お互いの悲しみや苦しみに寄り添う心がなければ、真の平和は来ません。
多くの人が一生懸命に働いていますが、そこに届けたい思いが宿っているでしょうか?経済優先で、人を後回しにするようでは、その仕事は人を幸せに出来ません。思いを込めて最善の仕事をすること。仕事を通して、その思いを人に届けること。つまり「人々の魂に触れる仕事をするのです!」聖ホセマリアが望んでいたのは、そんな仕事をする人々です。また、日常生活の中で、友だちを思い、親や兄弟を思い、それを小さな行いに乗せて伝える人です。「平和と喜びを運ぶ人」これが聖ホセマリアのモットーです。■
2020/09/25 精道学園・高校生、創立記念ミサ説教より(文責:小寺神父)


すべてに始まりがある-キリスト教の起源-  

 この学校は、聖ホセマリアがオプス・デイの精神を伝える学校を創るように望んだから存在しています。その精神とは「よく学び、よく働いて、人間的に成長しながら、周りにいる人々に喜びと幸せをもたらし、よい社会を創りあげる人になる」ことです。また、一人一人は神から人生の使命を受けています。勉強や仕事と日常生活を通して、神の望みに応えることで本当の幸せに至ります。それは、あなたたちのことです。その最高のモデルが、イエス・キリストです。信じていない人が多いと思いますが、実在した人物で、キリスト教にも始まりがあります。今日は、その起源をど真ん中の直球で伝えます。

 

「イエス・キリストは十字架に付けられ、死に、三日目に復活した」。ここから始まりました。死者の復活!誰が信じられますか?使徒ペトロたちも、それを聞いて「頭が変になったか、幻でも見たのだろう…」と思いました。ところが、ペトロ自身も復活したイエスに出会いました。直接に見て、触れ、話し、信じました。ペトロの行いを見れば分かります。片田舎の漁師にすぎない臆病者だったのに、その後はローマ皇帝に向かい堂々とキリストに従うように勧め、牢に入れられて「二度とキリストについて話すな」と命じられても、「神に従うか、人に従うか、どちらが正しいか分かるでしょう」と言い返しています。このような勇気と知恵はどこからきたのでしょう?本当にキリストが復活したという事実なしには考えられません。事実だったからこそ、最後は殉教して命を懸けてイエスの復活を証しできたのです。作り話に命を懸ける人はいません。「あり得ないことが起こった」ので、そこに神を見たのです。だからこそ、人生をかけて復活を目撃したと証言しました。

 

 2000年の歴史を見れば、キリストのために殉教した人が大勢います。ここ長崎にもいます。私も信じます。生きた証しが今にまで繋がっているからです。そして、わたしより遥かに優れた人々が信じているのを見て、納得できます。皆さんに「信じなさい!」とは言いません。しかし、信じない人に対してもイエスは復活して、共におられます。だから問いかけて下さい。「私はよく知らなし、まだ信じていませんが、あなた(イエス・キリスト)は誰ですか?」

 

 神を信じない人は、人々のために自己を犠牲にすることは難しいでしょう。神の使命に応えることも出来ないでしょう。イエス・キリストは私たちのために自己犠牲を捧げ、人生の模範を示しました。さらに、復活して喜びを先取りして、この世の幸せの在り方を教えられたのです。残り僅かな学園生活を通して、イエスと心の中で語り合ってください。■*2020/09/18精道学園高校3年生への説教より(文責:小寺神父)

 

 

よい麦と-「よい社会」を創り上げる責任と使命-

聖書に「よい麦と毒麦」のたとえ話があります。主人に命じられた人が畑によい麦の種を播きましたが、芽が出て育つと毒麦が混ざっていました。「抜いてしまいましょうか?」と主人に尋ねると、「そのままにしておきなさい。収穫の時に分別して、毒麦は集めて焼かれて苦しみ、よい麦は集めて倉に納められる」と主人は答えました。
 この「畑」とは、私たちが住む社会です。「よい麦、毒麦」とは「良い人と悪い人」でしょうか。さて「毒麦」つまり「悪い人」に出会ったら、あなたはどう向き合いますか?考えてみましょう。
 
A)無視する B)やっつける C)嫌だけど我慢する D)改心を助ける、待つ。
 
イエスは「今は引き抜かずに収穫の時を待とう」と教えています。ところが、世間ではコロナ流行に関して「自粛警察」と呼ばれる人々がいます。県外ナンバーの車を見れば嫌がらせをして、営業している店にスプレーで落書きして、子どもが公園で遊んでいるのを見ると警察に取り締まるように電話する、そんな人たちです。まさしく、悪人を社会から抜いて捨てる振る舞いです。よい社会を目指しているのでしょうが、逆の結果になっています。社会を「よい人」「悪い人」の二つに分けて、悪を排除する考え方です。それでは、よい社会は実現しません。社会から排除される人は不幸だし、排除する方も「愛する心がない」ので、やはり不幸です。「毒麦」は、この世の中に罪が入ったこと、罪に導く誘惑、悪い考えなどを指しています。「よい麦」は「徳」、あるいは愛する心を指しています。
 だから、畑に生え出た毒麦は、実は私たち自身のことでもあります。自分では「良い麦」と思っていても、それは勘違いです。神や隣人に対して罪を犯しています。だから「直ぐに引き抜かれたら」私たちも死んでしまいます。主人に待ってもらう必要があるのです。そして、毒麦も良い麦と同じように主人に目をかけられ栄養を頂き、愛情を受けて「良い麦」に変ることが出来ます。畑の主人は愛情を注いで、変わるのを待っています。そのお蔭で毒麦が良い麦に変ります。それが私たちの身の上にも実現するのです。
 そこが大切です。相手を許せない心自体が、「毒麦」なのです。イエスは、それを無理やり抜こうとせずに、私たちが自分で抜くのを待っています。自分と戦って「よい麦」を育て、「毒麦」を自分で抜くように戦いましょう。自分で抜かないと、最後に「焼かれて苦しむ」ことになります。「毒麦」を抜き「よい麦」を育てることは、自分自身を成長させ、その分だけ「よい社会」を創り上げます。この社会は、もともとは素晴らしい世界でした。私たちの罪によって悪が生じ、影が生まれたのです。だから、その逆をすれば「よい社会」になるはずです。■ 2020/07/03 
*精道学園・高校3年生、朝の説教より(文責:小寺神父)


尾崎神父からの手紙

本校の指導司祭であった尾崎神父が高校生へ宛てて書いた手紙です。人間の生き方、哲学、神様などについて語っています。
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精道学園は、カトリック教会の一つの組織であるオプス・デイの信者と協力者により1978年に創立されました。
オプス・デイHPと創立者聖ホセマリアに関する興味深い動画や記事を紹介します。


興味深い動画

LinkIcon聖ホセマリアは「日常生活の聖人」


聖ホセマリアは「日常生活の聖人」として知られている。聖ホセマリアは神の仕事という意味の「オプス・デイ」を創立した。オプス・デイのメッセージは、日々の活動の真只中で全ての人が神に出会えるというもの。 (日本語の字幕を設定してください。7分42秒)

LinkIconソフィーの証言


ソフィーは25歳で結婚して間もなく、夫が事故に遭い、重い障害を負いました。「あなたは若い、別れるなら、今ですよ!」とソーシャルワーカーに言われましたが、残りました。(7分35秒)

興味深い記事

LinkIcon節制と克己(I)


「質素に育てるという勇気を持ちなさい、そうでなければ、無駄骨になってしまいます」と、聖ホセマリアは家族たちに言っていました。 家族に関するシリーズは今回は節制の徳を取り上げます。

LinkIcon疲れと休息(I)


この記事では、2回に分けて、神の子としての生活の一部である疲労と休息についていくつかの問題が取り上げられています。
 

 LinkIcon情報化社会において如何に内面性を涵養すべきか?


アラーム、メール、ツィッター、アラート、電話、コンピューターなどは、現実とのかかわり方を変えました。これらの手段が、日々の生活において、神と人々への奉仕に本当に役立つために何をすべきでしょうか。
 

LinkIcon慎ましさを育てる(1)少年期


人は、自己の内面をより深く知るに従って、慎ましさの感覚に目覚めて行くものです。自分自身を大切にする心(自己に対する尊敬)は、まず、家庭において学ぶものです。この記事が勧める事柄。
 

 LinkIcon慎ましさを育てる(2)少年期と青年期


人は、自己の内面をより深く知るに従って、慎ましさの感覚に目覚めて行くものです。自分自身を大切にする心(自己に対する尊敬)は、まず、家庭において学ぶものです。この記事が勧める事柄。
 

 LinkIcon親の権威


子どもたちに、自由を尊重することと規則を守らせることを両立させるのは簡単ではない。この記事は、家庭教育につていくつかの提案を勧める。
 

 LinkIconマナー


礼儀正しさ、丁寧さ、などの小さな徳は、より大きな徳と深くつながっています。家庭は年齢に関係なく、これらの徳を学ぶための最良の場です。良い真マナーについての記事。
 

 LinkIcon子供の自由を育てる


子育てとは、ようするに、子ども自身が「望んで」善いことをするように導くことです。そのためには、子どもたちが納得しながら善いことをするよう、教えて行くことが大切です。
 

LinkIcon生きるための教育


子供たちを大切にするということは、子供たちが自分自身をコントロールできるまで育てること、つまり自由な人間にすることです。 「家族と子育て」についての記事です。
 

教皇フランシスコ、オプス・デイ属人区長にフェルナンド・オカリス神父を任命

 2017年1月24日、教皇フランシスコはオプス・デイの属人区長にフェルナンド・オカリス・ブラーニャ神父を任命された。教皇様はその日に行われた属人区の選挙の結果を認証された。
 
この任命によって、属人区オプス・デイの総代理であったフェルナンド・オカリス神父は、昨年12月12日に逝去したハビエル・エチェバリア司教を継ぎ、聖ホセマリアの第三番目の後継者となった。
 フェルナンド・オカリス神父は、スペイン内戦(1936~1939年)の際に亡命したスペイン人家族の8人兄弟の末っ子として、1944年10月27日、パリに生まれる。バルセローナ大学で物理学を(1966年修士)、教皇庁立ラテラノ大学で神学を学ぶ(1969年)。その後ナバラ大学で神学の博士号を取得(1971年)し、同年司祭に叙階された。司祭生活の最初の数年は、特に青年と大学生の司牧に専念した。
 1986年以降は教理省の顧問を務め、また聖職者省(2003年)と新福音化推進評議会(2011年)の顧問も務めた。1980年代には教皇庁立聖十字架大学(ローマ)の基礎神学の専任教授(現在は名誉教授)であり、この大学の設立に関わった一人でもあった。
 

LinkIconオプス・デイ、選挙総会

オプス・デイ属人区長を選ぶ、選挙総会は2017年1月23日からローマで開催されます。新しい属人区長は、12月12日に帰天されたハビエル・エチェバリーア司教の役務を引き継ぐことになります。

属人区長エチェバリーア司教、帰天される


 聖ホセマリアの2代目の後継者としてオプス·ディを導いたハビエル·エチェバリーア司教がグアダルーペの聖母の祝日である2016年12月12日に帰天しました。84歳でした。本校には3度来校し、児童生徒、そして教職員を力強く励ましてくださいました。直近の来校は高等学校が開校した2009年春で、高校と中高駐車場の聖母像を祝福してくださいました。
 エチェバリーア司教は12月5日、軽度の肺感染症のためローマのカンプス・ビオメディコ総合病院に入院し、抗生物質による治療を受けていましたが、3日前に容態が急変しました。
 オプス・デイの属人区長補佐フェルナンド・オカリス師は、司教の最後の様子について次のように語っています。
 「パドレ(属人区長の愛称:お父さんという意味)はグアダルーペの聖母に祈っていました。一緒にいた1人がグアダルーペの聖母の御絵を持って来てほしいかパドレに尋ねたところ、パドレは次のように答えました。『その必要はありません。たとえ見えなくても、マリア様が一緒にいてくださっていることを感じていますから』」。

属人区長の書簡


2018年2月14日の手紙
「神に感謝しましょう。すべては神から来るものだからです。」属人区長はブラジルへの旅行、この日の二つの記念日に息づいている献身の歴史、そして四旬節の開始について思い起こします。
2018年1月9日の手紙
「自由への愛と朗らかさを皆さんへの遺産として残したいと望んでいます」と聖ホセマリアは語っていました。この教えに関連づけて、属人区長はこの書簡において、その遺産に感謝をし、自由というたまものについて考えを深めるよう招きます。
2017年11月11日の手紙
 確かに、疑いや問題や心配の只中にあっても喜んでいることが可能なのです。すべての人に伝えるために、神の喜びを与えてくださっています。
2017年7月7日の手紙
   主は私たちキリスト者に期待しておられるのは、本来持っている清さと同時に喜びに満ちた新しさを持つ福音をすべての人たちにもたらすことです。
2017年6月4日の手紙
 一致して前進する家庭は、他の家庭を助けることができるし、逆に助けを願うこともできる。この手紙を通して、属人区長は、愛が生まれる場所である家庭への心遣いについて、いくつかの提案をする。
2017年 司牧書簡
 この司牧書簡は、去る1月に開催された一般総会の結論についての解説です。
5月10日の手紙
 フェルナンド・オカリス師はこのメッセージを通して、祈りと周囲の人への細やかな愛をもってファチマに旅する教皇様に同伴するように勧めます。
4月5日の手紙
 フェルナンド・オカリス師の2017年4月5日の手紙。聖週間を間近に控えて、キリスト者の生活の中で、イエス・キリストを中心に置くことを、属人区長は思い出させて下さいます。
1月31日の手紙
 属人区長フェルナンド・オカリス師からオプス・デイのメンバーへの最初の手紙。1月23日からの思い出を伝え、頂いた祈りへの感謝を述べ、故エチェバリーア司教を思い出されています。
12月の手紙
オプス・デイ属人区長、エチェバリア師は待降節に関する12月の書簡で、慌ただしい雰囲気によって、ほとんど気付かないうちにぼうっとしてしまい、主がすぐそばにおいでになるという見地を喪失させる危険に注意するよう呼びかけておられます。
 
11月の手紙
いつくしみの大聖年閉幕について触れながら、属人区長は「神のいつくしみを個人的に受け入れ、同じように人々を受け入れること」を私たちに促す。
 
10月の手紙
オプス・デイの歴史の新たな年が始まる、10月2日を機に、属人区長は書簡で、「より多くの人々に、またキリスト教的生活の経験が無い人や信仰のない人たちに仕えるために、〈扇子を広げる〉時が続いている」と述べています。」
 
9月の手紙
ハビエル・エチェバリア師は、十字架について考察し、苦しみの道を歩む病気の方々と高齢者に付き添うことは、神に栄光を帰す慈しみの業であることを思い出させます。
 
8月の手紙
8月の書簡で属人区長は、“私たちの母であられるこの天の元后が、喜んで全き寛大さを持って、神のお望みに応えるため戦うようにと、私たちに促しておられます”と勧めて、忍耐を持って他人の欠点を忍ぶという霊的慈善の業を説明します。
 
7月の手紙
「キリスト信者の身分証明書は喜びです。」属人区長は今月の手紙の中で、教皇の言葉を繰り返してこう述べる。たとえ矛盾の真只中にあっても、私たちの喜びは、慰めを必要とする人々に対して、福音的なものとなるだろう。
 
6月の手紙
「人々に主を伝えるようにと神に招かれたことを喜んでいるでしょうか。」と属人区長は私たちに尋ねます。書簡で使徒職について話し、“私たちの心を満たしているもの、永遠の喜びの源であるものを、単純に表わすことです“と言っています。
 
5月の手紙
「5月は聖母への信心を深める月です」と属人区長が今月の書簡で勧めます。神の母の献身について福音書で黙想するとき、私たちの友だちと知り合いを聖母の御子に近付かせる必要性を感じることでしょう。
 
4月の手紙
「傷つける人を赦す、人間のなし得る最も貴いことの一つです。」4月の手紙で属人区長はこのように記し、手紙の大部分で赦しについて語る。
 
LinkIcon3月の手紙
属人区長は今月の手紙で、3月の様々な典礼の祝日に触れると共に、私たちキリスト者は平和を広める力を持っていることについて語る。
 
LinkIcon2月の手紙
2月の手紙でオプス・デイの属人区長は、この大聖年の四旬節を上手く活用するよう招く。そして、生者と死者のために祈るという、いつくしみの霊的行為の一つについて考察する。
 
LinkIcon1月の手紙
2016年最初の手紙で、オプス・デイ属人区長は、聖マリアについて、また良心の糾明を行うことの大切さ、そして教会で引き続くいつくしみの特別聖年について語る。
 
LinkIcon12月の手紙
*ただいま準中です。もうしばらくお待ちください。
 
LinkIcon11月の書簡
死についてのキリスト教的考え方は、人がその見知らぬ一歩に襲われがちな恐れに対抗する本物の手段となります。しかし、死は「容赦なく訪れるでしょう」(聖ホセマリア)。
 
LinkIcon10月の書簡
オプス・デイの属人区長は今月の手紙で、「日々オプス・デイをするため、私たちは熱心に祈っているでしょうか」という質問をして、オプス・デイの創立と教会の他の出来事について考えています。
 
LinkIcon9月の書簡
今月の手紙で、 ハビエル・エチェバリア師は十字架と喜びの関係について説明します。これからの数週間、家族のために祈りを強めるように勧めています。
 
LinkIcon8月の書簡
属人区長は8月の典礼の祝日に触れ、オプス・デイで過ごしている『家族のため』のマリア年を機会に、子供の愛情の教育における親の役割に関する考察を行なっています。
 
LinkIcon7月の書簡
今回、ハビエル・エチェバリア師は、各々の家庭内、他の皆が信仰とキリスト教的生活において成長するために助けを与えることの大切さを思い出させています。
 
LinkIcon6月の書簡
属人区長は、家族生活についての考察を続けています。今月は、家の物的なことや雰囲気を細やかに配慮することに注目しています。家庭では「真の観想的な会話」が可能です。
 
LinkIcon5月の書簡
ハビエル・エチェバリア師は、5月の手紙で、家族との関係にある「最も小さな溝も埋める」ために、祈りに頼るよう勧める。
 
 
 


 

令和元年度

3月『感謝』
学校で過ごしていると「ありがとうございます!」という言葉をよく耳にします。
それは、児童生徒や教職員だけでなく、保護者や業者・配達員など多くの方々からです。
数年前、ある企業が2060代の男女に「ありがとう」に関するアンケートを行いました。
“1日に何回「言葉(声)」で「ありがとう」と伝えているか?”というものです。
結果は、1日平均9.7回でした。多いのか少ないのか、受け取り方はそれぞれの立場で異なるでしょう。「ありがとう」を伝える手段としては、世代が若くなるにつれて、やはりメールやLINEなどのテキストメッセージで送る割合が高くなり、直接言葉で伝える機会が減少傾向にあることも分かりました。
その一方で、「ありがとう」を伝えられると嬉しいのは「文字」ではなく、9割以上の方が「声」と答えています。それは、言葉の方が、相手の人柄や気持ち・温かみを感じ取れるからです。
では、「ありがとう」と感謝の念を抱くのは、どのようなときでしょうか?
例えば何か品物をプレゼントされたら、もちろん嬉しいものです。
でも、その品物自体以上に、「相手の人が自分のことを思ってくれていた、時間や労力を費やしてくれた」といった、その背景にあることが何よりもありがたい、嬉しいと感じるのではないでしょうか。
これからAIに溢れた情報化社会の中で暮らしていきます。その中においても、やはり挨拶と同じで、顔を合わせて感謝の言葉を伝え合うことは、お互いを認め合うことにもなり、心を穏やかにしていきます。デジタル社会の中で、どのように“ひとの温もり”を伝え合うのかを引き続き心掛けたいと思います。


2月『剛毅』

本校の卒業生でテニス部の大先輩に、堀晃大(36歳)さんがいます。NTT西日本ソフトテニス部監督です。今年、日本リーグで優勝して前人未到の10連覇を成し遂げました。彼は一つの言葉を心に刻んで練習に励み、指導に当たっています。それは中学時代にテニス部監督から言われた「自分が持っている力を、今日、惜しまずに出し切れ」という教えです。人間の心の中には、よい望みと悪い傾きが共存しています。努力して向上したいという望みと、怠けたい、楽をしたい、我を通したいという誘惑です。自分の中に「よい自分」と「悪い自分」がいて、対立しています。この戦いに負けると堕落します。勝てば成長します。心の中の勝負に人生が懸っているのです。「すべきことを今する」のか、後回しにするのか。義務的に果たすのか、意欲的に果たすのか。各瞬間が戦いです。その人の生き方が試されています。寒くても決めた時間通りに起きる。時間通りに仕事や練習を始める。サッと終わって次の活動に移る。このように、怠惰やわがままに負けない強い心をつくり上げる必要があるのです。また、人生には逆境もあります。競泳の池江璃香子選手は、白血病が見つかり東京オリンピックを断念しました。しかし、たとえ練習ができなくても、日々持てる力を出し切って戦っています。闘病とリハビリです。何があろうとも日々、全力を尽くすこと。けっして手を抜かないこと、それは神の望みに応える生き方でもあります。「今日、この瞬間、力を出し切ろう。明日は来ないかもしれない」。


1月『清貧』

11月23日、教皇フランシスコがローマ教皇としては38年ぶりに来日なさいました。その際の日本のフィーバーぶりは記憶に新しいですが、この方は質素を好まれるということでも話題になったことを覚えています。枢機卿時代、移動はバス・電車、小さなアパートで自炊生活、ローマに移動する際もエコノミークラスで移動なされたなどなど、尊敬の念しか浮かびません。私たち人間は、何かを過剰に持つと「自分が強くなった」と勘違いしてしまいます。例えば、車の運転になると性格が変わったように荒くなる人、多くのお金を持っていて偉そうにする人、権力や力のある人を友人に持ってあたかも自分も強いかのように振る舞う人などなど、よく聞きますよね。「自分の力」以上の力を手に入れるから、虚勢を張り、そのような振る舞いをする。そのとき、私たちはもはや「本来の自分」ではなくなっているのではないでしょうか。13年前の1月、私の母は1年半の闘病の末、他界しました。入院せずに自宅で緩和療法を受けながら、自分の死が刻々と近づいているのを認識しつつ、母は自分の葬式用の写真を撮ったり、葬儀の契約をしたり、自分の持ち物を一つひとつ近親者に与えたりしていました。そのときに私に言った言葉が心に残っています。「人はね、身体ひとつで産まれ、何一つ持っていくことなく死んでいくのね。だから、身分相応のものに囲まれて、穏やかに暮らすのが一番いいわよ。欲張ることなく生きていきなさいね。」その時のとても穏やかな母の微笑みが目に焼き付いています。


12月『寛大』

 日本語の寛大という言葉の意味は幅広いようですが、学校のモットーである「寛大」の起源である西洋の言葉は、英語ではgenerosityであり(これは実は寛大さの意)ます。これは「ケチでない」とか「気前が良い」という意味を持っているようです。お金のことが頭に浮かぶと思いますが、それだけではありません。自分の物を人に貸したり、自分の時間を人のために割いたり、自分のエネルギーを人のために使うことも寛大さの表れです。人に対してケチであるよりも気前よくありたいものです。人から善い事をされたら返したくなります。返す当てがない場合は、別の誰かにその恩を返そうとすると思います。災害ボランティアでも、以前災害に会った方が別の地域で、以前こちらが災害に会った時にお世話になったという理由でボランティアに参加される方も多いようです。寛大な行為には寛大さを持ってお返ししたいということでしょう。こういった善の連鎖が増えれば、世の中はもっと良いものになるかも知れません。ところでその連鎖はどこから始まるのでしょうね。だれかが、人からしてもらっていないにもかかわらず、何かしてあげる人が必要です。こういう人は正に寛大な人と言えるのではないでしょうか。今月はクリスマスがあります。石炭をもらわずに済むようにどうすれば良いでしょうか。例えばまずこちらから寛大な行いをしてみると、それを見たサンタさんが寛大なプレゼントをくれるかも知れません。


11月『秩序』

 「秩序」とは「物事を行う場合の正しい順序」「社会や集団が望ましい状態を保つための順番や決まり」のことです。秩序の対義語は「混乱」「混沌」。2011年の東日本大震災の際、交通機関がマヒした東京で駅やタクシー乗り場に並ぶ大勢の人々、支援物資の配給やコンビニやスーパーに並ぶ人々被災地の人々の姿がありました。これらの様子が海外メディアに取り上げられ「日本では、なぜ商店などでの略奪行為が起ここならないのか」「大地震でも日本の治安は揺るがない」「これほどの被害にあっても日本人はパニックにならずに秩序を保っている」など、称賛の声が世界に発信されたのです。私たち日本人からすれば当たり前のことですが、海外の人たちからすると驚くべき状況だったのです。日本人の国民性といえばそれまでですが、海外のメディアは「日本人は学校教育や社会の中で、どんな状況でも社会の平穏のために自分をコントロールすることを学び、日本人の美徳である我慢が根底にある。」などと分析し紹介しました。11月のモットーは「秩序」です。秩序は広意義で用いられる言葉ですので「秩序を大事にしましょう。」と言われても私自身ピンときません。周囲の人を思いやる気持ちを持つこと。我慢すること。優先順位を考えて行動すること。見通しをもってスケジュールを立てること。身の回りの整理整頓。などを意識して、対義語である「混乱・混沌」の状態にならないようにしたいと思います。


10月『誠実』

誠実…「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること」皆さんも親の愛情や友達が自分自身を思いやる姿勢など、身近に多くの誠実と出会っていることだと思います。私も身近に誠実さを感じる方がいらっしゃいます。本校で中学・高校の体育の剣道を指導して下さる齋藤先生です。齋藤先生は授業の2時間前には体育館に来られて、体育館を道場にする場を構築していきます。まずは玄関の入り口前で砂を掃くことから始まり、天気のいい日にはホースで水を撒きます。その後、玄関の砂を掃き、体育館1階の全てのフロアを2回(特に汚れているときは、納得されるまで)モップがけします。もちろん、神棚にあたるステージもきれいにされます。私は剣道の時間では一番に体育館に入りますが、裸足で歩いていても気持ち良く、体育で行う体育館の雰囲気と全く異なります。神聖な場と化し、真心を持って生徒を迎える情熱と真心が感じてきます。齋藤先生は私にいつも言っています。「生徒が裸足で剣道を行うのに、砂があったら嫌だと思います」「着替える場所が埃だらけだったら、生徒も気持ちがよくないと思います」齋藤先生から出る言葉はいつも生徒のためです。私たちも日々のちょっとした思いやりを持つことで誠実な行いができます。誰かの落としたごみを拾う、椅子を元に戻す、靴を揃える。思いやりという小さな行動が誠実という大きな信頼に育まれていくことでしょう。


9月『責任感』

 世間は金メダルを取った人や、チャンピオンになった人を称賛します。また、国を動かした偉大な武将や将軍たちを英雄と呼んで憧れます。しかし、そんな人生を送るのはごく限られたほんの一握りの人に過ぎません。それ以外の人々は誰からも省みられることなく平凡に生きて、平凡に死んでいきます。社会で成功する人生だけに価値があり、平凡な人生には平凡な価値しかないのでしょうか?それでは、ずいぶんと不公平な感じがします。
 ここにいる人の中から偉大な仕事を成し遂げる人が出て来るかもしれません。それは嬉しいことですが、多くの人は、きっと平凡な人生を送ることになると思います。来る日も来る日も同じことの繰り返し、目立たない仕事。それは金メダルほどの価値がないのでしょうか?そんなはずがありません。誰もが気づいているはずです。今の自分がいるのは誰のお陰ですか?母親が毎日毎日、ご飯を作り、洗濯をして、服を着せて世話をしてくれたお陰です。そうやって立派に学生生活を普通に送っているのです。この目立たない母親の仕事が人生を支えています。人間は、目の前の人を幸せにするために生きていると言ってもいいぐらいです。世間に誉めてもらうためではないのです。それを直接に求めると道から外れていくような気がします。勉強も仕事も同じ心で取り組むべきでしょう。自分のためではなく、人に仕えるため、役に立つためです。仕事は「物事を通して人に仕える」と書きますが、その通りですね。これが人生を本当に生きる指針になります。目立たないけれど、誰からも金メダルをもらわないけれど、心にプライドを持って自分の役割を喜んで果たせるような人間を目指しましょう。NHKで人気のあった「プロジェクトエックス」の主題歌「地上の星」は、そんな人生を称賛しています。興味のある人は検索して聞いてみてください。


7月『友情』

友達から学べること

 私が4年生のときにクラスに転校してきたA君。教室ではおとなしい子でしたが、放課後、いっしょに野球をしたらすごく上手だったのでみんなびっくり。左投げでコントールが抜群でした。すぐに草野球チームのエースになりました。外見からはわからないけど、すごい特技を持っている人がいることに気づきかされました。
 中学のときに友達になったB君。勉強もスポーツもよくできる人でした。試験勉強は、ただ教科書を読むだけ。それでも、教科書にマーカーを引いたりノートにまとめたりと忙しく勉強していた我々よりも、はるかに良い点を取っていました。彼から効率的な勉強方法と集中力の大切さを教えてもらいました。
 同じく中学で知り合ったC君。部屋にドラムがあるというので、叩かせてもらいに行きました。そのとき初めて知ったことに、彼は、訳あって、クリーニング屋をしているおじさんの家に居候していて、小さな屋根裏部屋に住んでいました。身近な人の中にも思いもよらない人生があることを気づかせてくれました。
 高校で知り合ったD君。お笑い芸が得意で、ときどき昼休みに、学校の中庭で特別公演を開いていました。公演はいつも大盛況で、吉本新喜劇よりも面白いと言われていました。才能はもちろん、それを人にアピールしていくエネルギーに圧倒されました。
 私たちの周りにいる友達はひとりひとり才能も性格も違います。ひょっとすると、まだ気づいていない友達の才能や特技があるかもしれません。友達のいいところに目を向けてみたいものです。


6月 『勤勉』

「日本人は勤勉だ」というイメージが先行しがちですが、最近では、そうではないという声も沢山あるようです。たとえば、OECDという国際機関のデータでは、日本人一人当たりの労働生産性は、加盟する36カ国中20位で、主要先進7カ国でみると最下位の状況がずっと続いているそうです。また、別のデータでは、学校教育を終えた後、社会人としてどの程度勉強しているかという調査結果では、日・米・仏・韓の4カ国のうち、「ほとんどやっていない」が男女ともにトップだといいます。なかなか耳にイタイ話です。
「勤勉」と聞くと、コツコツと努力する人というイメージがあります。一日に結構な作業量があるわけではなく、また難度の高いことをするわけではない。少しずつ、しかし、怠らずに積み上げることのできることです。
問題は、何をするかです。確かに勉強や仕事、家事は忙しいし、期限があるものは守らなければならず、優先しなくてはならない。そのため、自分で大切だと思っていることが後回しになることありがちです。どうしても後回しになります。けれども、大切だと思える何かに、今月は一日五分だけでも取り組んでみる。特定分野の知識を深めたり、楽器の腕を磨いたり、とにかく、まず決め、コツコツとやる。そして、月末に振り返ったとき、少しだが、これだけは積み重ねたのかと達成感が持て、これからの生活に潤いを与える習慣を増やすきっかけとなる、そんな月になればと思います。


5月『敬愛』

 「我以外皆我師」は「われ以外みなわが師」と読みます。これは、小説「宮本武蔵」で有名な作家の吉川英治の言葉です。自分以外の人たち、全てから、何がしか学ぶべきことがあることを思い出させてくれる言葉です。
 以前、私が体調を崩して入院した時のこと、いつもはそこまで感じていなかった事柄が心に沁みてくる経験をしました。丁寧に診察してくださるお医者様や、疲れを見せずにこやかに接してくださる看護士さん。文字通り「有り難い」と感じました。
 病気になって初めて気づかされるのではなく、日常生活の様々な場面で、身の回りにいる人に、学ぶべきことを沢山見つけていくことができれば素晴らしいと思います。性格が合わない人からでも、嫌われている人からでも、老若男女を問わず、一人の例外もなく、自分の心がけ次第で「皆我師」になるのでしょう。それらを発見し、「有り難い」と感じつつ、日々接していくことができれば、より幸せな人生を味わうことができるのだと思います。
 「これこそ犠牲を実行する人が実らせる風味たっぷりの果実である。すなわち、他人の惨めさに対しては思いやりと寛容を示すが、自分の惨めさに対しては一歩も譲らぬ厳しさである。」(聖ホセマリア著、『道』198


4月『礼儀』

 先日の午後、ある田舎道を運転していた時のことでした。周りはみかん畑と水田に囲まれたのどかな地域で、ちょうど小学生たちが下校していく時間帯でした。道沿いを数名のグループになった子供たちがワイワイとおしゃべりをしながら楽しそうに歩いています。ちょうど私が横断歩道の近くに差し掛かると、一人の女の子が渡りたそうにしているのに気がつきました。徐行運転をしていたのですぐに停車して、「さあどうぞ」と手で合図をすると、ニコッと笑って横断しました。さあ、もう後続もいないし発進しようと思っていると、その女の子はクルッとこちらを向いてお辞儀をするのでした。これには驚きました。こんな子供がいるのか!と。渡り終わって、クルッと車の方を向いてぺこりとお辞儀をしたあの子の姿は今でも目に焼き付いています。あの子にとってはいつものこと、当たり前のことなのかもしれません。でも、ひょっとしたら本人もそうとは気がつかずにその小さな行いで周りの人に清々しい思いを運んでいるのです。どのような親御さんなのだろう?どのような学校に通っているのだろう?そんなことも頭の中に浮かんできます。もちろん、たくさんの学校で礼儀について、挨拶について教えていることでしょう。でも、たった一人で学校の外で誰も見ていないところで、礼儀正しく爽やかに振る舞うことができるこの子はすごいなぁ、そんな思いでいっぱいになりました。
 礼儀を重んずること。これが私たち一人ひとりの心の奥底まで根を張りますように。そして、たった一人でも学校の外でも誰も見ていなくても礼儀正しく爽やかに振る舞うことができますように、との思いを新たにしました。


平成30年度
3月『感謝』

 今月のモットーは感謝です。3月、年度の最後に当たってこの一年を振り返ることで、様々な人からいただいてきたご恩に感謝の気持ちを持とうということでしょう。卒業していく人たちにはひとしおその思いが強いと思います。
 
 ところで月のモットーとしての感謝となると、感謝しなさい、と言われているような感じを受ける人がいるかも知れません。しかしながらモットーは児童生徒を始め教職員はもちろん、できればご家族でも取り組んでみていただきたいものですので、最終学年に関係する人だけでなく、各自がこの1年を振り返って感謝の気持ちを持とうという意味があります。
 
 聖パウロの言葉に「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」という文言があります。この言葉は、例えば自分の努力の結果成し得たと思っている事柄の中にも必ず周りの人からいただいたものが何かしらあるはずで、いただいたものであるのなら、それには感謝の気持ちを持ちましょう、ということだと思います。
 
 試合に勝った後のアスリート達もよく感謝の言葉を口にしています。成長につながる経験には決して楽しい経験だけでなく、厳しくつらい経験もあります。実際に経験しているときはつらく思えても、後からそのことに感謝の気持ちを持つ人もあります。感謝することは物事をポジティブに見る人ができることかも知れません。


2月『剛毅』

 年末、私はあるフラメンコに関わる知人からクリスマスカードを受け取りました。そのカードにはこのようなことが綴っていました。
 
 自由に空を舞うピーターパンを製作した作者の言葉にこのようなものがあります。『幸福の秘訣とは、「自分がやりたいことをする」のではなく、「自分がやるべきことを好きになる」ことである』
 
 この言葉であらためて思い起こされるのはスペイン人アーティストたちの舞台にかける姿。踊りのキレを上げるために身体を絞ってきたり、体調を崩してもそれを感じさせないような振る舞いだったり、グループの仲をよくするためにわがままを押し殺したり。舞台に立てる幸せのために、やるべきことをやっている姿が意外でもあり、頼もしくもありました。フラメンコは、教えてくれます。やるべきことを積み重ねていくことの、非凡なる美しさ。
 
 私たちの日常生活でも「やるべきこと」より「やりたいこと」を優先させてしまうことが多々あります。朝決まった時間に起床できない。課題を先延ばしにして、テレビやゲーム、携帯に興じるなど。「剛毅」の本質は心の戦いにあると思います。自己実現を果たすためには様々な困難、逆境、苦しみが伴い簡単なことではありません。しかし、このプロセスは弱い自分自身の意志を高めていくことを教え、目的地へと誘ってくれるのです。やりたくないことが出てきたときこそ、大きな心をつくる大事な機会と捉えていきましょう。  


1月『清貧』

不要なものを持たない、欲しがらないようにしよう

 片付けるのが苦手な私は、いろんなものをため込んでしまいます。普段使わないものや不要なものは思い切って捨てればいいと思うのですが、いざ捨てる段になると、「いやいや、後できっと役に立つよ」というささやきに負けて、なかなか捨てられません。
 そんな私にピッタリの本を見つけました。『人生を変える断捨離』。2010年にベストセラーになった『断捨離』の著者、やましたひでこ氏の本です。この本は、私のような片付け下手の人間がどうすれば不要なものを「捨てる」ことができるかを教えてくれます。
・  まずモノを出して、全体量を俯瞰する。(どれだけ不要なものをため込んでいるかがわかる。)
・  いきなり「大物」からスタートしない。(部屋全体を一度に片付けようなどと無謀なことにチャレンジしない。時間オーバーになり、かえって混乱状態で終わってしまう。)
・  まず、予定時間内に終わる小単位で始める。机の整理なら、「引き出し一つ分」から始める。タンスならまず「一段分」だけとする。
などなど、片付けの基本を教えてくれます。
 1月のモットーは「清貧」。「不要なものは持たない、欲しがらない」をともに頑張りましょう。
「忘れないでほしい、必要なものを少なくする人ほど多く持つ者なのだ。自分から必要なものをつくり出してはならない。」(『道』630 ホセマリア・エスクリバー)


12月『寛大』

「ハムエッグの話」
 人生を考えさせる興味深い笑い話を聞きました。紹介します。ある時、ニワトリさんとブタ君が街の賑やかな通りを散歩していました。色取り取りの明かりを見ながら、ニワトリさんが言いました。「ねえ、わたしたちもレストランをやらない?」ブタ君が答えました。「いいねえ。どんな店を出すのかな?」「そうね、ハムエッグのレストランはどうかしら?」少し沈黙があってから、ブタ君が答えました。「それは不公平だよ!」
 
ニワトリさんは毎日たまごを提供するだけでいいけど、ブタ君は自分自身を捧げないといけないから、確かに不公平ですよネ(笑)。あまり面白い話ではありませんが、人生を考えさせられました。誰もが「安全」な人生を願っています。損をしないように上手に立ち居振舞っているつもりが、いつの間にかケチな根性に支配されてしまいます。そもそも「安全な」人生って、あるのでしょうか?絶対に倒産しないはずの銀行が倒産したり、人生が約束されたはずの一流企業で、大量のリストラがあったり、人生は人間の思惑通りに進みません。知恵を絞ったところで、高が知れています。
 
そもそも人生は冒険なのです。危険をすべて避けようとするなら冒険は成り立ちません。失敗を恐れてはいけません、失敗から学んで乗り越えるのです。傷つくことを恐れて自分の殻に閉じこもってはいけません。傷つくことから学びます。ニワトリさんの人生ではなく、思い切ってブタ君の人生に挑戦してみましょう。


11月『秩序』

 「日本の台所」とも呼ばれた築地市場が豊洲市場に移転しました。早速、飲食店街をテレビで中継していましたが、「ここまでとは思いませんでした」とインタビューに応じた人がいるほど長蛇の列でした。概して日本人は列に並ぶのが好きだと言われますが、またそれが日本人は秩序正しい民族だと言われる所以の一つでもあります。
 さて、今月のモットーは「秩序」です。「秩序」と言って堅苦しければ「順序」といってもよい。ものごとを順序よく行う。普段の勉強や仕事であれば、まあ概ね順序正しく行っているでしょう。しかし、忙しくなってくると、するべき物事は増えるのに対して、何が正しい順序かを考える時間は少なくなり、段々順序よく行えなくなってきます。さらに、人間は忘れたり怠けたりしますから、ついにサボるという事態を招いてしまうこともあります。たとえば、試験前になると、心地よく勉学に集中するため急に机上の整理を始める。まだ勉強を始めてはいないが、息抜きのために漫画を読む。今度は続きが気になって勉学に集中できないから、今一度全巻読破する。理由には事欠きません。しかし、心の中では、もう一人の自分がささやきます。今はそんなことしている場合ではないと。極端な(とは必ずしも言えない)例ではありますが、ものごとを順序正しく行うのは、言うは易しく行うのは難しいのです。
 ものごとを順序正しく行うため、何が正しい順序かを、今一度考え再スタートする。そういう月にしたいと思います。


10月『誠実』

「世間から貰った恩を万分の一でも返して行きたい」これはボランティア活動家の尾畠春夫さんの言葉です。2018815日、山口県周防大島町で行方不明の2歳児を救出して、全国的に有名になったスーパーボランティアと言われる人です。
  尾畠さんがボランティアをしている動機が上述の言葉だそうです。「恩を返していきたい」「万分の一でも」この短い言葉に、誠実さ、感謝の念が溢れています。言行一致の尾畠さんだからこそ、様々な被災地へ足を運び、苦しんでいる人へ「朝は必ずくるよ」と励まし、力づけることができるのだと思います。
  私たちの多くは、尾畠さんのようにボランティアをすることはできないかと思います。勉強、仕事、家庭、いろいろな理由があり、とても現地まで飛んで行くことはできないからです。
  けれども、その基礎作りはできると思います。それは、毎日の生活の中で「ごめんなさい」「ありがとうございます」と言い、それを行ないで表すように努力するのです。
 【ある人について、こんな話がある。その人は祈りの時、主に向かって、「イエズスよ、あなたをお愛ししています」と言った。すると、天から答えがかえってきた、「愛とは、行ないであって、甘い言葉のことではない」と。もしかするとあなたも、この愛のこもったおとがめを受けるのではないだろうか。】(聖ホセマリア著、『道』933)この「ある人」とは聖ホセマリアご自身のことだそうです。


9月『責任感』

「責任」、現代では「負うべき任務・義務」「結果について責めを負うこと」という意味が浸透していますが、元々の意味は「何かに対して応答すること」「応答する・返答する状態」を意味しているそうです。本校の児童・生徒たちは、たくさんの人数がいる学校に比べて一人ひとりに任されている役割が大きくなっています。クラスの係活動をはじめ、生徒会活動やクラブ活動、学校行事などにおいてもよく仕事を果たしていると感心させられることも多いです。もちろん「無責任だな」「周囲に迷惑をかけているな」と指導することもあります。何かをやろうとするとき、やるのかやらないのかを選ぶのは本人です。本校の校訓である「自由と責任」は本人の責任において、より良い自由を選択できる人になってほしいという思いが込められています。私たちは、日々の生活の中で大なり小なり数多くの「自由と責任」に直面します。このとき、「負うべき任務・義務」と思うのか「何か(他の人から自分に任されたこと)に応答する」と思うのかは人それぞれだと思いますが、本校の児童・生徒には、より良い自由を選択して成長してほしいと日々願っています。


7月『友情』

一人はみんなのために!
 
ルフィ少年が海賊王を目指して次々と現れる敵の海賊と戦いながら、仲間たちと力を合わせて宝を探す旅を続ける冒険物語の漫画「ONE-PIECEワンピース」が大人気です。その人気の秘密は…?様々な人が分析をしていますが、読者の共感を呼んでいるのは、ルフィと仲間たちの信頼と絆です。仲間が敵に捕まれば、どんなに強い相手でも臆せずに立ち向かいます。一度やられても仲間と力を合わせて立ち上がり、やり直します。そして、困難を乗り越えて仲間を救い、絆はさらに強まります。旅を続ける度に信頼と絆が成長していく点が、読む人を感動させ元気付けています。それだけ、現実の生活では信頼とか絆が弱くなっていることを反映しているのでしょう。
 
みなさんは、どうですか?友だちのために、自分を犠牲にできますか?漫画のような敵との戦いはありませんが、日常生活で自分との戦いはあります。友だちが病気で入院したら、自分の遊びを止めてお見舞いに行きますか?それは信頼と友情を育て、絆を強めます。自分のしたい事を後回しにして、友のことを優先しますか?自分だけの成功を求めるより、みんなと一緒に幸せになりましょう。それがキリスト教の呼びかけです。イエスは自分が犠牲になって、私たちのために苦しみを受けてくださいました。今度は私たちの番です。苦しむ友がいたら、見ぬ振りをしないで手を差し伸べましょう!自分だけのことを考えるより、自分はみんなのために何が出来るか?を考えるなら、その人は神に近づいています。


6月『勤勉』

 「アントニオ·ミル先生は大学で考古学を専攻し、高校でラテン語を教えていました」。今、どのような人物を想像したでしょうか?本の虫?メガネ?ちょっとオタクな教師?しかし実はこの先生、2002年にスペインのバレンシアで本校姉妹校の職業訓練学校“Xabec”をゼロからスタートさせた起業家なのです。
 
 4月に私は彼の話を聞く機会に恵まれました。ゼロとは文字通りのゼロ。お金もゼロ、人材もゼロ、 設備もゼロ、土地もゼロ。彼はバレンシア中を回り、学校のためにそれらを貸してくれる会社を探します。しかし良い返事をくれるところは1つもありません。それでも彼はあきらめずに無数の人に頭を下げ続けます。2ヶ月後、ついにクレーン車2台と土地を手に入れます。そして皮切りとしてクレーン車の運転資格を与える学校をスタートしました。その後も彼は止まる事なく学校の実現のために働き続け、今、Xabecは300人以上の学生を有し、電気、ロボット、空調、配管、溶接、機械整備、太陽光、省エネルギーについての技能を教える、高い就職率を誇る学校になりました。
 
 彼の困難にめげずに働き続け、不可能を可能にしてしまう力はどこからくるのでしょうか?それは「低中産階級の人々が誇りを持って働けるよう、彼らの自己実現の手助けをしたい」という熱意でした。彼は言います「私はラテン語の一教師に過ぎず、事業の経験は皆無でした。しかし信仰·希望·愛に燃えていました」。誰かの幸せのために生きること、それは日々頑張り続けるための大きな原動力になることをアントニオさんは教えてくれます。 


5月『敬愛』

○「世界を見たい」「聖書を勉強したい」という想いで単身外国へ。
○「キリスト教を教育理念に置いた学校を日本に作る」という想いで帰国。
○仏教が隆盛を極める京都にキリスト教の学校を作り、学校を発展させて大学を設立。
これはある人物の人生の一部抜粋です。
私はこの人物のことを小学生時代は教科書や伝記で名前は知っていたのですが、その時は何の感情もありません。中学校に入り、母校の創始者であること、「キリスト教」という授業でその人物について学んだことなどがきっかけとなり、「尊敬」するようになりました。大学を卒業し、教師という職業に就いても「尊敬の念」は変わりません。
ところが、私が教頭という職を拝命したとき、その「尊敬の念」に変化が訪れました。教頭という仕事の内容、学校を運営していくという使命。これらのことが要因となって、この人物は私の心の中に定着し、その生きざまが私の中に刻みこまれて、『敬愛の念』へと変わったのです。
「尊敬」は英語で「RespectAdmire」、「三尺下がって師の影を踏まず」的な感覚があるのではないかと感じますが、『敬愛』は「Love and Respect」とLoveが加わり、親しみと愛情が入ってきます。(Venerationは聖人などに対する「崇敬」の意味がありますが、今回はあえて「Love and Respect」の方をあてたいと思います。)
みなさんは「敬愛する人」はいますか。身近な人であったり、歴史上の人であったり、そして神様であったり。
一方で、まだ「敬愛」とまではいかないという人もいるでしょう。しかし、いずれ「時」が来れば現れると思います。私のように・・・。


4月『礼儀』

「礼儀正しい人」とはどんな人ですか?ピシッと姿勢の美しい清々しく気持ちの良い人というイメージが湧いて来ます。辞書で「礼儀」を調べてみると、人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式とあります。それは人間関係における潤滑油のようなものと言えるかもしれません。礼儀のなっていない人は、整備されていない油の切れた自転車のような人。乗るたびにギコギコと不快な音を立てるので乗っている人も周りの人も嫌な気持ちになります。逆に礼儀正しい人はキッチリと整備された自転車のよう。スイスイと進んでどこまでも走って行きたくなるのです。4月は色々なことが新たにスタートする時期です。ピシッと美しい姿勢で清々しく気持ちの良いスタートを切りたいものです。日常生活の潤滑油である「ありがとう」「ごめんなさい」「よろしくお願いします」「どういたしまして」という言葉を大切にしながら、スイスイと春風にのりながら毎日を気持ちよく過ごして行きたいなと思います。


平成29年度
3月『感謝』

 感謝は新鮮度が一番ではないでしょうか。食べ物は旬なうちに食べるから素材の旨さを存分に引き出せます。感謝も同じで、何かをしてもらった時や後に「ありがとう」などの言葉がすぐに出てくれば、してあげた人も喜びや満足感が大きいと思います。逆に感謝の言葉が遅くなると、してあげた人の喜びや満足感は半減していきます。では、新鮮度を保つためにはどうすればいいのでしょうか。答えは簡単です。それは、当たり前と思わないこと。例えば食前食後の「いただきます」「ごちそうさま」どれだけ多くの人が時間と労力をかけて食卓に運ばれているのか。また、当たり前のように料理をしてくれている親も疲れていたり、悩みがあったとしてもしっかりと作ってくれます。親からの車での送迎に対して「ありがとう」も朝の忙しい時間帯や働いて疲れた後に体に鞭打って運転してくれるなど枚挙にいとまがないと思います。このようにして頂いた背景には大変な苦労があることを感じ取ることが大切ではないでしょうか。人は慣れてしまうとその環境が当たり前になる。言わなくてもわかるでしょという感覚では関係も円滑にはいきません。「親しき仲にも礼儀あり」まずは身近な家族から新鮮度を引き出すようにできればいいですね。そうすれば、学校でも社会でも新鮮な気持ちで日常を過ごすことができますよ。言い忘れていましたが、感謝の言葉に笑顔を付け加えればまさにいうことなしです。


2月『剛毅』

 一昨年話題になった本の中に『GRIT やり抜く力』(アンジェラ-・ダックワース ダイアモンド社)という本があります。ダックワース博士はペンシルベニア大学心理学教授です。彼女は成功者と言われる人たちの最大の共通点は、「やり抜く力」にあると言っています。
 彼女が調査対象の一つとしたのは、米国陸軍士官学校(ウェストポイント)の千二百名の優秀な新入生徒たちでした。全米1万4千人の志願者の中から学力、体力、リーダーシップの点で選ばれた人たちですが、そのうち、5人に1人は卒業までに中退してしまうそうです。しかもその大半は入学直後に行われる7週間の基礎訓練期間中に辞めてしまうのです。しかも、入学試験で最高評価を獲得した生徒たちが、なぜか、最低スコアの生徒たちと同じくらい、中退する確率が高かったのです。この事実からわかったことは、困難を乗り越える力は、その人の持っている能力(学力、体力など)とはほとんど関係がないということです。それよりも重要なことは「絶対にあきらめない」態度、「やり抜く力」でした。
 私たちは困難に出会うと、「自分には能力がない」と、あきらめてしまいがちです。しかし、これは実は努力をしないための都合のいい言い訳なのではないでしょうか。
 広辞苑によると、剛毅とは「意志がしっかりして物事に屈しないこと」とあります。ネバーギブアップの精神で困難を乗り越えていきたいものです。


1月『清貧』

『幸福のピラミッド』-清貧-

 中学生に「幸せって何?」と尋ねました。その結果は・・・「好物を食べる。好きな人と話す。お金がある。好きなものを買う・・・」と並びました。「幸せとは、善を手に入れた時の充足した心の状態」ですが、その満足度は所有する善のレベルによって決まります。
 分かりやすい初歩的な善は「感覚的欲」です。食欲、性欲、睡眠欲・・・これは生存のために必要ですが、度を越せば自分を縛ります。次のレベルが「身体的、技能的欲求」です。スポーツなどがこれに当てはまります。単純な欲ではなく苦労する練習を伴います。その上が「知的欲求」です。勉強もこのレベルですね。さらに「精神的欲求」があります。仕えること、人の役に立つこと、一言で表すなら「いい人になる」ことです。そして、最上レベルに「霊的欲求」があります。神を知り愛し、神に従うことです。私はこれを「善のピラミッド」と名づけました。すべては神に秩序付けられて初めて本来の良さを発揮します。
 霊的動物である人間を支えるためにどれも必要な欲ですが、秩序があり、下位の欲は上位の欲に従属します。ところが、下位の欲に執着するなら、より高いレベルの善に向かうことができません。自分を磨いて、人々に仕え、神に従うことが「人の道」ですが、自我に執着すると欲が邪魔をします。「目の欲、肉の欲、生活のおごり」とヨハネが警告しています。好奇心、情欲、虚栄心、支配欲など、これら「善のピラミッド」からはみ出したものです。物に執着すると、物的幸せに留まります。これは虚しいものです。上の善を目指すとき、もっと幸せになるのです。それが「幸福のピラミッド」です。頂上の幸福を目指して、心の邪魔者である執着と戦うことが清貧なのです。


12月『寛大』

♪ジングルベル、ジングルベル…。いよいよ年末です。ご存知の方も多いと思いますが、クリスマスはイエスの誕生日というわけではなく、正確な日付は分かっていません。ただ、古くから教会はキリストの生誕を祝ってきました。わたしたちは、この時期にクリスマス・プレゼントを頂いたり、贈ったりと忙しくしていますが、日本にこの習慣が広まったのは、明治になってからのことのようです。
 さて、聖書によると、キリスト生誕時にそこを訪れたのは、東方の三人の学者と羊飼いたちです。東方の学者らが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とあります。
 一方で、当時ユダヤを支配していたヘロデ王は、キリストが王と言われることを聞き、自分の王位を守るためキリストを手にかけようと探させますが、ついに発見することはできませんでした。思い上がったものの心を神は見抜かれるからでしょう。
今月のモットーは寛大です。街のクリスマス・ムードを味わいつつも、ちょっと立ち止まってキリストに思いを馳せる、祈る、募金をする。心の「宝の箱」を開け、生まれたばかりのイエスに贈り物を献げることが出来たらと思います。そして、貧しい羊飼いとともに、わたしたちも「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言えたら、きっと素晴らしいクリスマスになると思います。(坂井)


11月『秩序』

 先日、掃除の時間にある児童が階段掃除をしていました。階段の上から順番に隅から隅まで丁寧に1段ずつ黙々とゴミを集めています。彼は掃除の意味を知っていました。どこにゴミが溜まり、どうしたらそのゴミをうまく集めることができるかも考え、道具を選んでいました。
 教育学者・哲学者として名高い森信三先生が提唱する「時を守り、場を清め、礼を正す」。【時を守り】とは時間を守ること。つまり相手を尊重することにより自分の信用を積み重ねることです。【場を清め】とは掃除をすること。つまりいろいろなことに気づく人になり、心を磨き、謙虚になり、感動の心を育み、感謝の心を持つことです。【礼を正す】とは挨拶・返事をすること。つまり、相手に心を開いて接することです。日本の伝統文化を言い表した素晴らしい言葉だと思います。一言で言い換えると「秩序」。決められた時間を守り、整理整頓に心がけ、すべき事をすべき順番に遅らすことなく果たす。この児童は、きっと将来、人間関係や仕事面で信頼されるようになるのだと思いました。
 何のためにするのか、その意味を考え、行動することを習慣づけると秩序正しく考え、行うことができます。
 「秩序ある生き方をすると、時間が増える。その結果、神に仕えるためにもっと働いて、もっと大いなる栄光を神に帰することができる。」(聖ホセマリア『道』80


10月『誠実』

先日、リクルートに務める本校卒業生の話を聞く機会がありました。21世紀に求められる人材とはどのようなものか、彼は3つのキーワード「OpenFlatActive」を挙げました。たとえば、「Open」をもう少し具体的に説明します。  
○自らクリエイティブに考え、すべての新しいアイデアにオープンである。
○今までやったことのない解決方法や通常やらない解決方法についてもオープンに考えられる。
○誰とでもオープンな心で建設的な議論ができる。
このようなスキルが必要になるということです。
グローバルという言葉がすっかり浸透し、多種多様な文化・言語をもつ人々が協働しながら生きていく時代を迎えています。偏見や閉ざされた心では発展性は望めません。開かれた心で接し(Open)、客観的に平等に物事を見て正しく判断し(Flat)、積極的に行動していく(Active)姿勢が不可欠です。
このような姿勢を、「誠実」という人柄と共通点を感じます。
  聖ホセマリアは「拓」の中で「誠実」について次のように述べています。
 ●自分の行いを判断するときはいつも、客観性を欠かぬよう警戒しなければならない。あなたも例外ではないのだ。(329)
 ●何をするにも神の御前にいることを忘れないように。そうすれば、人に隠すべきものなどなくなる。(334)
今月のモットーは「誠実」。「OpenFlatActive」な姿勢を心がけたいと思います。
 


9月『責任感』

置かれた場所で咲きなさい-責任感-

 
 昨年12月に亡くなったシスター渡辺の書いた『置かれた場所で咲きなさい』がベストセラーになりました。彼女が悩んでいる時に指導司祭から手渡された詩の題から取った言葉です。一部分を紹介します。「タンポポは、タンポポのままでいいのです。バラは、バラのままでいいのです。それぞれが『咲く』ということ、それが大切!置かれた場所で咲くということです。」
「人のせい、環境のせい」にして不平、不満、文句を言っている間は、環境の奴隷です。置かれた状況の主人になることです。そこで自分の花を咲かせるのです。神が私をここに植えたことが正しかったと、あなた自身が証明してみせるのです。それは、わたし自身が変わることによってのみ可能です。時には、咲きたくても咲けない時もあるでしょう。その時は、根を下へ降ろして、根を張る時なのです。
 
 人を羨ましく思わず、自分の置かれた立場、状況で「すべきこと」を自分の使命と受け止め、真剣に精一杯果たすことです。言われて仕方なく義務を果たすことは、ある意味人任せで無責任な態度です。タンポポはタンポポらしく、バラならバラらしく行動しましょう。その一心に働く姿は輝いています。そんな人を神は高く上げます。与えられた仕事は、つまらない義務に思えても、あなたらしく生きる素晴らしい舞台です。人に見せるための仕事ではありません。そんな人に道は開かれていくのです。


7月『友情』

 「精道学園ほど生徒の力を信じている学校は日本にありません」と言ったら驚かれるでしょうか?しかしそう言って良いのではないかと思います。本校はオプス·デイの精神に基づいて運営されていますが、その創立者·聖ホセマリアは言います。「全ての人が金持ち·賢人·有名になれるわけではない...しかし全ての人 −そう全ての人− が聖人になるよう呼ばれているのだ」【拓125番】。「生徒の皆さん一人ひとりは聖人と言われるほどの立派な人物になる可能性を秘めている」私たち教職員はそう信じています。
 聖人と言えばマザー・テレサが有名です。彼女はインドの路上で極貧の生活を送る人々が、人生の最後に「愛された」と感じることができるよう彼らの臨終の世話をした人物でした。彼女にとって路上でひとりぼっちで生活する人々は「自分と関係のない他人」ではなく、「自分にとって大切な人」だったのではないかと思います。
私たち自身を振り返ってみましょう。毎日顔を合わす私のクラスメート1人ひとりは私にとってどんな存在ですか?自分にとって大切な人ですか?それとも「本当のところ、自分と関係のない他人」ですか? 彼ら1人ひとりの幸せを願っていますか?彼らの喜びは私の喜びですか?彼らの悲しみは私の悲しみですか?彼らにとって私は本当の友ですか?
生徒の皆さん、君たちは周囲の人たち一人ひとりのことを心から大切に思うことができる力を秘めています。勉強やスポーツと同じで、人のことを気にかける力は、日々周囲にいる人たちのことを考えようと努めることによって少しずつ身につきます。是非チャレンジし、出会う全ての人のことをいつも思いやることができる偉大な人間になってください。


6月『勤勉』

『勤勉』英語ではdiligenceindustryと表現します。industryは「産業」だけでなく、『勤勉』という意味も持っています。
 diligenceindustryも語源はラテン語。didis(apart)[分ける]から来ており、ligencelegere[選ぶ、集める]です。つまり、「せっせと選び分け・集める」⇒『勤勉』。industryindu(within)[中で]struere(build)[建てる、積み重ねる]です。つまり、「中でせっせと積み重ねる」⇒『勤勉』、さらに派生して『産業』となりました。おなじ「勤勉」でも微妙にニュアンスが違います。「選び分けて集めて自分のものにしていく」感覚と、「積み重ねて作り上げる」感覚と。「今月のモットー、『勤勉』を英語で言うと」と聞かれたら、私は個人的にはどちらも当てはまると考えます。自分のためにこつこつと努力するのも重要ですし、こつこつと積み重ねて成果を上げ、結果を出すのも大切です。
『勤勉』の対義語は『怠慢・怠惰』と辞書には記されています。これらの語は「全然仕事をしない、遊び呆けている」というイメージでわかりやすいですが、前記のdiligenceindustryを鑑みると、「違う方向に一所懸命になっていること」も『勤勉ではない』と言えるのではないでしょうか。本来ならしなければいけないことではないことに取り組んでいる、しなければいけないことを理解しないで別のことに一所懸命。「明日提出の課題に手をつけないで、3日後に提出の課題に一所懸命取り組んで満足感を得ている人」いませんか。「試験前に急に掃除の虫がうずきだして整頓を始める人」いるでしょう。6月はぜひ「今この瞬間にやらなければいけないこと」を把握し、「やるべきタイミング」で「やるべきこと」に取り組み、結果を出してみませんか。
 


5月『敬愛』

 毎年高校1年生では3日間ほどのインターンシップを行っています。その間、手分けして学年担当の教員は生徒たちが働いているところを訪問して様子を伺いに行きます。例年そうですが、昨年度も生徒たちの評判は非常に高く、どの職場からも学校に対する高い評価をいただきました。外交辞令的な要素も入っていると思いますが、何か自信を得たようなその後の彼らの様子から、それだけではなかったなと感じました。学校が褒められて悪い気はしないのですが、聖ホセマリアなら次のようなことを仰ると思います。「彼らが褒められるような生徒になったのは親の影響の方が大です。」と。親御さんこそが、その子ともっと小さい時からずっと付き合い、育て上げてこられているので当然です。夏に中学生を交換留学で連れて行ったとき、姉妹校のホストマザーからこう言われたことがありました。「日本に帰ったら是非この子のご両親に伝えてください。とても良く教育されましたね。すばらしい子供ですよと。」さすが姉妹校の母親が言った子供の評価は親の評価でした。そうお伝えしても「うちの子は外ずらだけいいんですよ。」と予想通りの返事が返ってきましたが。今月のモットーは敬愛です。子供はもちろん大人もこれまでの人生において、親の影響は少なくないことはだれでも認めることだと思います。何かで褒められたり、表彰されたりした時には、本当は自分の親にも何か感謝の気持ちがあらわせればいいのですが・・。そういうことを気恥ずかしく感じる人は、毎日アヴェ・マリアのお祈りをご両親のためにするというのはどうでしょう。


4月『礼儀』

 私はサイクリングが趣味で、様々なところに自転車で出かけます。坂が多い長崎で自転車に乗るなんてきついだけでしょう、という声をたまに聞きますが「坂があるからこそ楽しい」と言うと、さらに怪訝な顔をされます。他の乗り物であればあっという間に越えてしまう峠も、自転車であれば息を切らせてやっと頂上に着きます。でも、登ってきた道のりを振り返ったとき、さらには目の前に広がる山々やその向こうに見える海を眺めたときの爽快感は何とも言えません。鳥のさえずりを聞きながら、あるいは無心にペダルを踏みながら、自分の力でこれだけの距離と高度を獲得したという事実が喜びに変わるのでしょう。時々他のサイクリストとすれ違いますが、見ず知らずの方であっても同志のような感じがして、会釈をしたり、手で合図をしたりして挨拶を交わすことがあります。また、初めて通る町でこれからサッカーの練習に行くと思しき何人かの小学生たちや部活動で走り込みをしている中学生たちとすれ違い、予期せず「こんにちは!がんばってください!」と声をかけられたことがあります。別の機会には、横断歩道で停車してくれた車にペコリとお辞儀をして渡っていく小学生たちの姿を見かけたこともあります。こういう光景に出会うと不思議と疲れも吹き飛んでまた元気にペダルを回すことができるものです。
今月のモットーは礼儀です。相手への思いやりに溢れた言葉や態度は人の心を暖かく爽やかにすることができます。声をかけられた人だけでなく、声をかけた人にも、そしてそのまわりにいるすべての人にも爽やかな風を送ってくれます。挨拶の"挨"という字は、「開く」という意味であり、"拶"は「迫る」という意味だと聞いたことがあります。つまり挨拶というのは「心を開いて相手に近づく」ことで、相手に爽やかな心をプレゼントすることとも言えるでしょう。新しいスタートの季節であるこの4月に、礼を尽くして爽やかな春風を送ることができれば素晴らしいなと思います。


平成28年度
3月『感謝』

 マザーテレサが、オーストラリアのアボリジニの居住区を訪れたときのことです。恐ろしく汚い家に住んでいる一人の老人に出会いました。だれからも完全に無視されて暮らしていたようです。マザーが「家の掃除と洗濯をさせてください」と頼んでも、「ほっといてくれ」と断られました。それでも、しつこく頼んで、ようやく認めてもらいました。掃除を始めると、ほこりまみれですが、とてもきれいなランプが出てきました。マザーは尋ねます。「ランプを灯さないのですか。」「どうせ、だれも来ないのだから、ランプは必要ないんだ。」と老人は答えます。マザーが「もし、シスターたちが訪問するなら、毎晩、ランプを灯してくれますか。」と聞くと、彼はうなずきました。
その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れることを約束しました。シスターたちはランプを磨き、そして、毎晩それに火を灯したのです。
 二年が過ぎました。マザーはその人のことをすっかり忘れていましたが、オーストラリアのこの老人から感謝のメッセージが届きました。
「あなたが、私の人生に灯してくれた明かりはまだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」(「マザーテレサ 愛のこころ最後の祈り」主婦の友社 要約)
 ところで、私たちにも、毎日そうじをしてくれたり、洗濯をしてくれたり、食事を作ってくださる方が身近にいます。その人のおかげで、私たちの人生にはいつも明かりが灯っています。今月は、ぜひ、感謝のメッセージを届けましょう。


2月『剛毅』

 ある人から教えてもらった話がとても印象に残っています。1962年、アメリカのマサチューセッツ州で一人の男の子が生まれました。彼の名はリック・ホイト。生まれるときにへその緒が首に巻きついていたために脳に障害が残り、生後9か月には医師から「一生、植物状態でしょう。」と言われます。しかしご両親はあきらめず、愛情深く育て、大学の研究者の助けも受けてコンピュータを使ってコミュニケーションをとることができるようになります。そんな彼に転機が訪れます。あるとき交通事故で全身麻痺になったスポーツ選手を応援するための8㎞のチャリティーマラソンが地元で開かれることになりました。その時リック君は言います。「父さん、僕も出たい!」お父さんのディックさんは無理だと思いました。リック君は車椅子を自力で動かすことは当然できないし、車椅子を押すディックさん自身はスポーツマンとは言い難いお腹の出たおじさんでしたから。でもリック君の熱意に押されて練習を始め、大会当日にはなんと完走してしまいます。リック君はひまわりのような笑顔で「父さん、走っているとき、僕、自分が障害者じゃなくなったような気分になったよ!」と言ったそうです。それから二人の人生が変わります。チームホイトの誕生です。トライアスロンでは、ゴムボートのリック君を引っ張りながら4㌔の水泳、ハンドルバーに乗せて180㌔の自転車、車椅子を押して42.195㌔のフルマラソンにも挑戦し、16時間14分という記録を残します。まさに親子の絆が奇跡を起こします。人は大切なもののために大きな力を発揮します。家族、友人、そして神さまのために、自分にとってかけがえのないことのために、少しキツイことや面倒くさいことを頑張ってみる。今月のモットーは剛毅です。朝決めた時間にパッと起きること、宿題やお手伝いを手抜きせずに丁寧に果たすこと、元気に挨拶すること、そんな小さなことを頑張ってみたいと思います。するといつか大きな奇跡の主人公になることができるでしょう。


1月『清貧』

 It's a little bit motainai. 以前英語を教えておられたアントニオ先生が、ある時にふと口にされたフレーズです。モタイナイと聞こえたのですが、もったいないということを言いたかったのは、前後の意味から明らかでした。そういえば、「mottainai運動」というものをケニアで推進しておられた女性がいて、「もったいない」という言葉は日本語に独特なもので、英語に上手く訳すことができないということを聞いたなと、その時に同時に思い出しました。もったいないという気持ちは日本人が大切にしてきた感性と言えるでしょう。今月のモットーは清貧です。清貧も詫び寂びに代表されるような日本人が好みそうな感性につながりそうです。清貧はもったいないという気持ちをもつことの結果でしょうか。清貧というと、質素な生活を思い浮かべます。無駄遣いをなくし、必要でないものをあまり多く持たない生活と言えるでしょう。当然、清貧にももったいないことを極力避けようという気持ちも含まれているでしょう。しかしその一方で、もったいないのでなかなか物が捨てられないで、家の中は普段使わないものでいっぱいというようなこともあり得ます。どこか違うところがあるかもしれません。聖ホセマリアは「清貧は精神の問題である」と言いました。ものを持つ持たないに関わらず、ものにとらわれない心が清貧の精神を持っているというわけです。もしかしたら、もったいないからと手放さずに自分がしまっておくよりも、誰かが利用してくれた方がもったいなくないと考えると、もったいないは清貧に近い意味になるのかもしれません。


12月『寛大』

 年末は、日本中どこへ行っても「クリスマス」を祝うようになって来ました。ただ、クリスマス本来の意味が忘れ去られ、プレゼントを交換したりするだけのイベントになってしまっていることも少なくないようです。
「その頃チェザル・アウグストウスから、全世界の人口調査を命じる詔勅がでた。(中略)ヨセフはダビドの家系でありその血統なので、すでに懐妊していたマリアと共に、名を届けるために、ガリラヤのナザレトの町からユダヤのダビドの町ベトレヘムに来た。そこにいる間に、マリアは産期満ちて、初子を産んだので、布に包んでまぐさ桶に子を横たえた。宿屋に部屋がなかったからである。」(ルカ 第2章 1〜7節)聖ルカはイエス・キリストの誕生の次第をこのように簡潔に記述しています。神であり、宇宙の王であるお方が、人としてこの世にお生まれになったのは、なんと馬小屋でした。
 神様は、お生まれになられる時から、ご自分の行いをもって、私たち一人ひとりの心に静かに語りかけておられるかのようです。ご自分がこの地上に生まれるに当たって、壮麗な宮殿や暖かな宿を準備することもできたはずです。しかし、そうはなさらず寛大な心を私たちに優しく見せてくださいます。今月のモットーは「寛大」です。幼子イエス・キリストを思うと、私たちも毎日の生活の中で周りの人たちに対してもっと惜しみない心で接したり、幸せを届けることができるような気がします。


11月『秩序』

 今月のモットーは秩序です。物事の正しい順序、という意味で理解することができます。
 さて、ある大学で行われた授業の話を紹介します。教授は「大きな壺」をとり出し、教壇に置きました。 そして、その壺の中に、一つ一つ石を詰めていきます。壺がいっぱいになるまで石を詰めてから、教授は学生に聞きました。「この壺は満杯か?」 学生は皆「満杯です」と答えました。「本当に?」 教授は、教壇の下からバケツに入った砂利を取り出します。 そして、砂利を壺の中に流し込み、 壺を揺らしながら、石と石の間を砂利で埋めていきます。 教授はもう一度学生に尋ねました。「この壺は満杯か?」学生は答えられません。しばらくして、ひとりの学生が「多分、満杯ではないでしょう。」と答えます。教授は「そうだ!」と笑い、 今度は教壇の下から砂の入ったバケツをとり出しました。 砂を石と砂利の隙間に流し込んだ後、 教授はもう一度学生に尋ねます。 「この壺は満杯か?」 学生たちは、今度は声をそろえて「いいえ」と答えました。 教授は水差しをとり出し、壺のふちまでなみなみと水を注ぎました。「私が何を言いたいか、わかるかい?」 一人の学生が答えます。「どんなにスケジュールが忙しい時でも、最大限の努力をすれば、 いつも予定を詰め込むことが可能ということです。」確かに。そう理解することもできますね。ところが、この教授は別のことを学生たちに教えようと思っていました。「そうではないんだよ。」と教授は言います。「重要なポイントはそこではないんだよ。この例が私たちに示してくれている真実は、大きな石を先に入れない限り、 それが入る余地は、そのあと二度とないということだ。 ここでいう大きな石とは君たちにとって一番大切なものだ。それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと君たちは、それを永遠に失うことになる。もし君たちが小さな砂利や砂・・・ 、つまり自分にとって重要度の低いものから自分の壺を満たしたならば、 君たちの人生は重要でない何かで満たされたものになるだろう。 そして大きな石、つまり自分にとって一番大切なものに裂く時間を失い、 その結果、それ自体を失うだろう。」
 私たちの時間は限られています。物事を正しい順序で行っていくことは、単に整理整頓の問題ではなく、私たちの人生そのものに関わってくることです。ちょっと立ち止まって振り返ってみたいと思います。


10月『誠実』

 千利休といえば、わび茶の完成者として知られています。弟子も多く、中でも7人の高弟は利休七哲と呼ばれています。
さて、茶人として名声も高く、権威もあった利休ですが、ある時、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居(ちっきょ)を命じられました。利休と親交の深かった諸将が秀吉を憚り、訪れることすらしない中、利休七哲の細川忠興と古田織部だけは堂々と見送ったと伝えられています。同じく七哲の蒲生氏郷は見送りに行かなかったことを悔やみ、後に利休の息子を一時期かくまっていることを合わせて考えると、見送り一つにも、いかに勇気がいったことであるかが分かります。師と仰ぐ人が謹慎を命じられているのですから、例えいかなる政治的な事情があっても、一茶人として、一目見送りたいと考えたのでしょう。忠興や織部の信念、誠実さが見てとれるエピソードであると思います。
今月のモットーは誠実です。人は、必ずしも正しいと思う通り動けません。だからこそ、本当に自ら正しいと思った通りに行動できたとき、満足感を味わうのだと思います。小さなことから始めましょう。身近な人に、正直に、思いやりを持って接する。ときに、様々な状況に流されてしまい、思った通りに行動することが難しいこともあるかも知れません。失敗したことを人に報告するのは簡単ではありません。しかし、大抵の場合、報告することによって伝わるのは、この人は誠実だ、素直な人だ、ということです。
ちなみに、秀吉は見送った二人について、特に咎め立てはしなかったそうです。


9月『責任感』

 こんな話を読みました。昔、フランスのある貧しい村で起こった 不思議な出来事についての物語です。≪その村の教会に長く務めた神父が、遠くの村の教会に赴任することになりました。
 その神父への長年のお礼として、貧しい村人全員が、貴重なワインを一杯ずつ持ち寄り、樽に詰めて、神父へプレゼントすることになりました。そこで、出発の前日、集会所に次々と村人がやってきて、置いてある樽に、一杯のワインを注いで帰っていきました。そして、満杯になった樽を、村長が神父に贈呈したのです。ところが、赴任地の村に到着した神父が、その樽を開けて、ワインを飲もうとしたところ、不思議なことが起こっていました。そのワイン樽の中身が、水になっていたのです。なぜ、このような不思議なことが起こったのでしょうか。実は、貧しい村人の全員が、貴重な一杯のワインの代わりに、そっと一杯の水を樽に注いでいたのです。そして、全員、自分一人ぐらい正直にワインを注がなくとも大丈夫だろう、と思っていたのです。≫この話は、片田舎の小さな村での出来事ですが、私たちの中でも起きそうな出来事です。「一人ひとりが責任をもって、事にあたる」を目指しながら、なぜか、「集団的無責任」が生まれてしまう。9月のモットーは責任感。体育祭をはじめ、毎日の掃除、係や日直の仕事、課外クラブでの役割など、「自分一人ぐらいしなくても、いいだろう。」という気持ちがないか、振り返ってみよう。


7月『友情』

『友情』という言葉を見るとき、何を思い出すだろうかと考えを巡らせてみました。
まっ先に頭に浮かんだのは中高時代に毎朝の礼拝で歌った讃美歌の中の1つでした。
「いつくしみ深き 友なるイエスは、 罪咎(とが)憂いを 取り去りたもう。
こころの嘆きを つつまず述べて、 などかはおろさぬ 負える重荷を。」
讃美歌の312番、カトリック聖歌集657番です。初め、この歌詞の意味が分りませんでした。
中1ですから、「『咎』って何?」「『などかは下ろさぬ、負える重荷を』ってどんな意味?」と考えたのは当然ですが、もうひとつ考えたのは「イエス・キリストは『友』?」でした。
(咎‥‥過ちやしくじり、などかは下ろさぬ、負える重荷を‥‥背負っている重荷をどうして下ろそうとしないのか?  とのちに知りました。)
中学生の私が持つ『友』のイメージと『主イエス・キリスト』がどうしても合わなかったのです。
小学生の皆さん、中高生の皆さん、「本当の『友』とは?」「『友情』の核心って何?」と考えたことはありませんか?私は何度もあります。「友人に裏切られた」と感じたときや、「何であんなやつと友達なんや」などと考えたときが幾度となく‥‥。
大人の方は、今、ツッコミを入れていることでしょう。そう、「友人に裏切られた」、「何であんなやつと友達なんや」などと考えた私自身が「本当の友情」を持ち合わせていなかったのです。
『友情』を求めている時点で、それはもう『友情』ではなく『私情』なのでしょう。
『友情』を持ち合わせていない人物に「本当の友」はできません。
「いつくしみ深き 友なるイエスは、かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも、祈りにこたえて 労(いたわ)りたまわん。」


6月『勤勉』

 「勤勉」私はこの言葉で、ある少女の活動を思い出します。
 ある少女とはマララ・ユスフザイです。彼女は武装勢力パキスタン・タリバンに対して女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、英国メディアから注目されました。しかし、2012年10月9日に衝撃的な事件が起きました。パキスタン北西部のスワト渓谷で武装勢力パキスタン・タリバンが中学校のスクールバスを襲撃し、タリバンを批判していたマララ・ユスフザイが頭部と首に計2発の銃弾を受け重傷を負いました。その後、奇跡的な回復に至りました。
 なぜ、彼女は自身の命の危険を顧みず訴え活動を続けたのでしょうか?
 そこには、彼女のあるスピーチから伺えます。
「私は訴えます。自分自身のためではありません。すべての少年、少女のためです」
「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。
教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト」
彼女は自分のためだけでなく、人の役に立つことと世界を変えるという大きな志があったからです。この姿勢が、彼女を愚直なまでに突き動かしたのです。
 しかし、周囲を見ると自分のための人生に固執している人が多くみられます。私たちは自分の持っている能力を他人のために生かしてこそ、人生が真の意味で「自分のため」になるのではないでしょうか。今、置かれている状況を考え、勤勉に取り組む姿勢をもう一度見直してはいかがでしょう。


5月『敬愛』

 小学6年生の時、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を1週間で覚えるという宿題が出されました。みんな一生懸命になって覚え、1週間後にはクラス全員が暗唱できるようになっていました。その時覚えた「雨ニモマケズ」が今でも記憶されていて、ふとした時に思い出すことがあります。そんな時、以前はまったく気にならなかったのに、今になって味わえるようになった言葉があることに気づきます。
 たとえば小さなことでいらいらした時に「欲ハナク 決シテ怒ラズ イツモシヅカニワラツテイル」という言葉を思い出し、穏やかで心の寛い人間にはまだまだなれていないなあと反省します。また、自分だけ損をしたように感じた時には「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という言葉が思い出されます。一つの詩の中に見習うべき姿がたくさん描かれているように感じます。
 この詩は「斉藤宗次郎」というクリスチャンの方をモデルとして作られたそうです。「ミンナニデクノボートヨバレ」とあるように、この詩が作られた頃、クリスチャンはまだ迫害を受けることもあったようです。そんなつらい中でも周囲の人への愛情を忘れない姿勢が宮沢賢治の心にも深く残ったのではないでしょうか。
 5月のモットーは「敬愛」。周囲の人への尊敬と愛情の心を持つヒントがこの詩には詰まっているように思います。そして、どんなときも謙虚な心を忘れずにいたいと思います。
 「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ」。


4月『礼儀』

 「礼儀正しい人」と聞くと、「きちんと挨拶ができる人」「その場に相応しいマナーが守れる人」「正しく敬語が使える人」などが頭に浮かびます。当たり前のことで、ほぼできているようにも思います。
 さて、ある経済新聞のコラムに次のようなことが書かれていました。「わざとらしいふるまいは、どれも礼儀とは呼べない。礼儀とは習慣であり、自ずと表れる行為である」。この下りにしばし考えさせられました。「わざとらしい」ことはしないにしても、行為を目的とした形だけのものも「礼儀」とは言えません。しかし、日常を振り返ると、相手が見えたから条件反射で挨拶をする、周りの人がマナーを守っているから無意識のうちに自分も従う、相手が目上だから流れで敬語を使う、というような場面に少なからず思いいたります。
 感謝や相手を敬う気持ち、思いやりなど、相手への思いが溢れて自ずと言葉や行いに表れる。そしてその結果、礼儀正しい振る舞いとなる。身につける礼儀作法は、このようにありたいものです。
 神様に、そして家の人に感謝して「いただきます」。今日も互いに頑張ろうと「おはよう」。人と接する各瞬間に、心の中で言葉にならないとしても、感謝や相手を敬う気持ち、思いやりなどを持っていることが、本物の礼儀を身につけていく上で不可欠です。形ももちろん大切です。それが心の表れであるからこそ、心温まり、毎日がより一層豊かなものになる、これが礼儀の真髄と言えるでしょう。


平成27年度
3月『感謝』

 聖ホセマリアの著書『道』に次のような言葉があります。「毎日、幾度も心を神に上げて感謝するくせをつけよう。神があれやこれやをくださるから、軽蔑されたから、必要なものにも事欠くから、あるいは必要なものはちゃんとあるから。」(『道』268より)。良いことに感謝するのは理解できます。しかし、軽蔑されたら悲しくなり、必要なものがなければ困ります。一見して良いとは思えないことにもなぜ感謝することができるのでしょうか。そんな疑問がわいてきますが、答えのヒントになるような詩に出会いました。「まばたきの詩人」と呼ばれる水野源三氏の詩を読んだのです。水野さんは9歳の時に赤痢にかかり、脳膜炎を併発してその後遺症のために手足の自由を奪われ、ついには話すこともできなくなります。しかしある時友人から聖書を読み聞かされ次第に周りの人がびっくりするほど明るくなります。やがて水野さんは詩や短歌を作り始めました。お母様が五十音表を示し、水野さんがまばたきで合図して音を一つ一つ拾い、書き表していくのです。そんな水野さんが作った詩が「有難う」です。有難う/物が言えない私は/有難うのかわりにほほえむ/朝から何回もほほえむ/苦しいときも 悲しいときも/心から ほほえむ。おそらく水野さんは、声に出して感謝を伝えたかったでしょう。お母さんがご飯を作ってくれた時、ご飯を食べさせてくれた時、汚れた服を替えてくれた時、などなど。朝から晩まで「有難う」と言いたいことはたくさんあったでしょう。そうして彼は一所懸命微笑んでいました。
 軽蔑された時、私にはもっと謙遜になる機会が与えられました。必要なものに事欠くとき、当たり前だと思っていたものが当たり前でないことに気づく機会が与えられました。それらを一つ一つ、心静かに神さまの前で思い出すとき(つまり祈るとき)、私たちは一日の間に何度も感謝すべきことに出会っていることに気がつくものです。(水野氏の詩は作家、中井俊已氏のメールマガジンを参照しました。)


2月『剛毅』

 「英雄的な瞬間。さあ、跳び起きる時刻だ。ぐずぐずせずに、祈りながら起き上がれ。英雄的な瞬間は、からだを弱めることなく、意志を強くする犠牲である。(道206)」
聖エスクリバーは多くの人に「朝の英雄的瞬間」を勧めた。朝、起きる時間がきたら、布団の中でぐずぐずしてないで、「跳び起きよう」というのだ。しかし、ここで少し疑問が生じる。この「跳び起きる」という動作は、いったいどれくらいの時間をさしているのだろうか。一、ニ秒のことを言っているのだろうか。それとも一、ニ分でもオーケーなのだろうか。特に冬の朝の布団の中と外の温度差を考えると、一、ニ分でも十分に英雄的に思える。
この疑問に対する答えは、「英雄的な瞬間」の「瞬間」という言葉にある。「瞬間」とは、つまり、まばたきする間。おそらく一秒以内だろう。一分、ニ分では「瞬間」とは言えない。つまり「朝の英雄的瞬間」とは、まばたきの速さで起きようということなのだ。これはよく考えると大変なことだ。しかも、一日のうちで一番意識がもうろうとしているときに、やらないといけないのである。しかし、逆に考えると、一日で一番難しい戦いに勝つことができれば、そのあとやってくる様々な自分との戦いを有利に進めることができるだろう。だから、まず初戦に勝とうということなのだ。今月のモットーは剛毅。言い訳せず、弱音をはかず、まず初戦に勝とう。


1月『清貧』

 昨年、新語・流行語大賞にノミネートされた「ミニマリスト」は、最小限のモノで生活をする人のことを指すそうです。「ミニマリスト」は、自分に必要なモノがわかり大事にする人、大事なモノを大切にするために必要でないモノを減らすことを心がけている人です。
 今月のモットーは「清貧」。人は、ついつい色々な物に心を奪われ、本当は必要のない物まで求めてしまい、それに心が縛られて窮屈になる傾向があります。
 聖ホセマリアはおっしゃいます。『真の清貧は、持たないことにあるのではなく、執着しないこと、物に対する支配権を自発的に放棄することにある。「道632」』
 聖ホセマリアは生前、個人的に使っている物を自分の物にせず、ご自分の部屋には毎日使う必要最低限の物しかなかったそうです。またある時は、本に挟んでいた「マリア様の御絵」に執着していることに気づかれ、その御絵の代わりに紙切れを使われるなど、小さなところにまで気を配られていたという話を聞いたことがあります。
 物や情報が溢れている現代、私たちは、心と体が欲しがる物を飽くことなく追求することに振り回され、自分の、そして周りにいる人の必要に気づくことができなくなることがあるかと思います。
 次々と新しい物を求めるのではなく、自分で使う小さいモノにも記名をし、大切に使うことを心がけることで、心がより自由になり、精神的に豊かになることができるのではないでしょうか。


12月『寛大』

 聖書に次のような言葉があります。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(マテオ5章39~42節)
 キリストはこのような例えをもって、肉体的或いは精神的苦痛や金品の譲渡、疲労など、通常は避けたいと思うようなことを積極的に受け入れなさいと教えています。その理由が続きにあります。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(中略)あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マテオ5章44~48節)
 目先の損得に目を向けると耐えがたく思われるようなことでも、相手も神様にとっては掛け替えのない大切な子どもであり、ゆるす、与える、付き合う、などで神様を喜ばせることができる。神様を喜ばせるために与えられた貴重なチャンスだ。と捉えることができれば、不快に心を荒らされず、心の平和を保つことができそうです。
 そればかりでなく、日常的に、人の失敗を咎めない、気前よく貸す、進んで手伝う、などを心がけて人と接することは、建学の精神にある「周りの人々にその幸せを与える」ことの具体的な形の一つにもなります。


11月『秩序』

 「次にお待ちのお客様。こちらのレジへどうぞ。」
 レジ待ちで並んでいるとき、このように言われた経験はございませんか。1つのレジで1列の場合は問題ありませんが、あるとき、2つのレジで2列で並んでおり、私は一方の列の2番手でした。3つ目のレジが増えたので、もう一方の列に並ぶ2番手の方とともに一瞬の間を共有した後、「どうぞ」と譲ると、「いえ、あなたの方が先でしたからどうぞ。」 紳士的提案を却下された私は、う~む、さすが日本人などと思いながらレジに進んだ次第です。
「秩序」は「ものごとの正しい順序」と易しく言い換えることができます。正しいを「あるべき」と言ってもいいでしょう。秩序よく物事を行おうとしたら、まず、何が正しいのかを知らなくてはなりません。次に、自分にとって楽ではないことでも、正しいならそちらを選び実行する。この2段階プロセスがあると思います。前者も究めようと思えば深そうですが、やはり当面の課題は後者でしょう。身の回りのものが何処にあるべきか、どのように時間を使うべきかなど概ね把握していることでも、そのように正しくあれないのが実状です。それぞれの年齢、職業や立場に応じて「正しい順序」を目指すことが今月のモットーです。しかし、自分に「正しい」ことを要求し続けるというのは随分と堅苦しいのではないか。だから、たまに息抜きをいれることもまた、秩序正しい行いであると言えるのです。


10月『誠実』

「ありがとう、ごめんなさい、もっと助けてください」
 これらの言葉は、福者アルバロが神に向かって繰り返し使っていた言葉つまり祈りです。今月のモットー「誠実」を考えると、私たちもこの言葉をもっと使うことが必要だと感じました。
 誠実な心で日々の自分について振り返ってみましょう。なんとなく当たり前だと思ってしまっているのか、いつもお世話になっているあの人、この人へのお礼の言葉が言えていない。「ありがとう」「ありがとうございます」と言ってみましょう。恥ずかしがらず、お父さんやお母さんにも。
 様々な人に迷惑をかけていないだろうか。きつい言葉を投げかけていないかな。すべきことをせずに、したいことだけをしているんじゃないか。誠実な心で振り返ってみましょう。「ごめんなさい」というべきことがどんどん出てくるかもしれない。
 だから、「もっと助けてください」「もっと教えてください」「もっと説明してください」と遠慮なくいってみよう。間違いなく『私たちは弱いです』自信を持ってそう言えます。だから、誠実に「ありがとう、ごめんなさい、もっと助けてください」といえるとき、『私たちは強いです』。
 マザー・テレサは言いました、「大切なのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。身近な小さなことに誠実になり、親切になりなさい。その中にこそ私たちの力が発揮されるのですから」と。


9月『責任感』

 9月のモットーは責任感。思い出す聖書の箇所があります。マタイによる福音書第1章18節からです。『母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒に生活を始める前に身ごもっていることが分かった。夫ヨセフは正しい人だったので、このことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。すると、天使が夢に現れ、その子が聖霊によって宿ったことを伝えた。夫ヨセフは主の天使が命じた通り妻を迎え入れた。』という内容です。
 中学時代の礼拝で読み、責任感という内容の説教がありました。中高6年間を通して数回同じ個所を読む機会がありましたが、あるときふと頭に浮かんだのは、「ヨセフが妻を迎え入れたのは、妻への、また、信心での『責任感』だけだったのだろうか」ということでした。私も大人になり、結婚して、責任ある仕事や立場を与えられるようになりました。今思うのは、『責任感』の先に『あたりまえ』という感覚があるのではないかということです。『責任感』と『あたりまえ』との差は何か。同じ役割・仕事を果たすのに『責任感』で果たすのと『あたりまえ』に果たすのとでは本人のとらえ方が変わってくるでしょう。ヨセフは天使のお告げにより『あたりまえ』と思うようになったのではないでしょうか。
 2学期が始まり、夏の課題・宿題の提出があったり、体育祭ではそれぞれに与えられた仕事・立場で責任感を発揮しなければいけません。日ごろ培った責任感を発揮するとともに、与えられた仕事・立場を『あたりまえ』に果たすことを期待しています。


7月『友情』

 ある、ラガーマンの話です。彼は大学でラグビー部に入部したものの、最初からけがとの闘いでした。調子を上げれば、けがをして、リハビリを経て、復帰をする。また、けがをしてリハビリをする。その繰り返しでした。そうしているうちにグラウンドに立つことさえ怯える日もあり、繰り返す挫折の中で、プレイヤーをやめてトレーナーになろうと決意します。一番仲のよかった同じポジションの先輩に何気なく、愚痴をこぼしました。「選手をやめて、トレーナーになろうと思います。このままやっても、4年まで身体がもちそうにないですから」その先輩も同じくけがをしていました。リハビリもずっと一緒でした。同じポジションのため、ライバルで、心からお互いを高め合える仲間だった。そんな彼が、初めて、怒鳴った。「なに、言ってんだよ。お前からそんな弱気な言葉は聞きたくない」二度とそんなこと言うんじゃないぞ、と涙ながらに睨みつけました。私はこの先輩が本気で心からお互いを高め合える仲間だからこそ、真正面から伝えたのだと思います。つまり、「仲良し」だけでは本当の友情はうまれません。はっきりと相手の非を指摘できるのが責任ある友情です。自分のことより、相手のことを本気で思いやる心の強さと行いを身に付けていって欲しいと思います。


6月『勤勉』

 ある研修会で聞いた話です。
 
あなた自身について、次のような質問をされたらYes、Noどちらと答えるでしょうか。
  ○あなたは自分が人柄のよい人間だと思いますか
  ○あなたは自分が価値のある人間だと思いますか
  ○あなたは優秀な人間ですか
  ○今の自分に満足していますか
 いろんな国の高校生にこの質問をしたところ、中国では約7割、アメリカでは約8割の高校生が、いずれの質問にも「Yes」と答えたそうです。それに対し、日本の高校生は約3割しか「Yes」と答えていませんでした。
 研修会でその話をした講師は、「グローバルな時代を生き抜くために日本人としての弱点」と指摘しながらも、「日本には外国に負けないすばらしいものがあるのだから高校生には自信を持ってもらいたい」と話されました。そのすばらししいものの筆頭に「勤勉」を挙げられました。
 日本の電車は他の国に比べて事故が少なく、時間どおりに動きます。飲食物において、異物混入が大きく報道されるのは、日頃安心・安全な食生活ができているからでしょう。日本において当たり前と思われている多くのことが、実は日本人の「勤勉な態度」によって維持されていると言えそうです。
 ただし「勤勉」という徳は自然に身につくものではありません。日頃から頼まれたことに対して一所懸命取り組み、頼んだ人に喜んでもらえるよう尽す行動を続けることで身につきます。仕事や勉強だけでなく掃除、家庭での手伝いなどの小さなことにも一所懸命取り組み、「勤勉」の徳を磨いていきましょう。


5月『敬愛』

 以前パウロ・グリンというオーストラリア人の神父様から、本校でお話をしていただいたことがありました。この方は、長く日本で活動され、永井隆や北原怜子という日本でもあまり知られていない人について、英語で小説化して海外に紹介されています。彼が神父になろうとしたきっかけは、一人の神父様の死顔を目撃したことでした。インドネシアの東チモールというところでイスラム教徒とキリスト教徒との紛争に巻き込まれたのですが、微笑みながら死んでいたのです。同時に彼はそのとき以来平和について考えるようになりました。世界の平和のためには異なる考え方を持つ人々のことを理解することが不可欠であることを力説されました。中でも私が一番印象に残った言葉は、「世界に平和を叫んでも、自分の家庭の中で仲違いをしているような人にそういう権利はありません」というものです。聖書の中にも「目に見える兄弟を愛さない者が、どうして目に見えない神を愛することができようか」という文言があります。今月のモットーは敬愛ですが、同じようなことがいえるのではないかと思います。「人を愛さねばならないとだれもが言いますが、自分の家族や身近な人を愛せないなら、そういう権利はありません」と。間近にある「かもめ祭り」、多くの人に来て喜んでいただきたいと思います。そのためまず私たちが家族や友達に対する愛情をあらわしていくことができれば大成功になると思います。


4月『礼儀』

 四月になりました。グラウンドから望むことができる三川の山々の生命のあふれ出のような新緑と、中学高校校舎へと続く斜面の弾けるばかりの八重桜が眩しく目に映ります。天気の良い春の一日はただそれだけで私たちに幸せを運んでくれます。さて、新しい生活の始まったこの時期に思い出してみたいことがあります。それは礼儀(マナー)についてです。それは「堅苦しいこと、面倒臭いこと、形式的なこと」でしょうか?そうではありません。礼儀は誰もが快適に安心して暮らせるように、社会の中で自然に生まれてきた人間の知恵です。きちんと考えて行動すれば、誰でもそのマナーに行き着くことができます。礼儀の原則は「相手が気持ちよく過ごせること」ですから「思いやり」と通じるものがあるわけです。朝、顔をあわせると「おはようございます!」と挨拶をします。これは「元気ですよ!」「今日もいい一日になるといいですね!」という印です。何かをしてもらったら「ありがとうございます!」と言います。言われた方も嬉しくなりますね。このように、挨拶で「見えない心を見えるようにして」手と手をつなぐように、言葉を通して「心と心をつないで」いきます。「礼儀」は法律に書かれた規則ではありません。心に書かれている「心のルール」です。その心から「思いやり」が生まれ、「相手がきもちよく過ごせる」ために小さいけれど具体的な決心が出てくるのでしょう。心と心がつながった、気持ちの良い生活をスタートさせましょう。


指導司祭:硲恵介


 

令和元年度
 2月 本気で願う

 みなさんもよく知っているように、ミサの中では毎回聖書が読まれます。基本的に第一朗読は旧約聖書、そしてその後に福音書が読まれます。最近のミサでは、イエス・キリストが行われた数々の奇跡について語られる場面がよく出てきます。目の見えなかった人が見えるようになる、病気で寝たきりになっていた人が元気に床をとって歩くことができるようになる、悪魔に憑かれていた人が悪魔を追い払ってもらう、など。その中でちょっと気を引かれた言葉があります。「イエスが入っていかれると、病人を広場に置き、せめてその服の裾にでも触れさせて欲しいと願った。触れたものは皆いやされた。」(マルコによる福音書6,56)触れただけでいやされた!とびっくりしますが、今回注目したいのは、”触れさせて欲しいと願った”という言葉です。私達にもたくさんの願い事があるかと思います。勉強のこと、クラブ活動のこと、家族のこと、あるいは将来のこと、何でも良いわけですが、何がしかの願いがあるでしょう。では、その願っていることは実現するのでしょうか?ひょっとしたら「実現はしないだろうな…」とぼんやりながら思っているかもしれません。
 あの聖書の中の病人の人たち、彼らは必死でした。医者にもかかっていたでしょうし、たくさんの薬のお世話にもなっていたでしょう、でも病気はよくならない。そこに、イエス・キリストの噂を聞きつけたわけです。「あの方の言葉には力がある!」「嵐に静まれというと静まったらしいぞ!」などなど。そしてこの方ならなんとかしてくださえうだろう、と希望をかけて強く願ったに違いありません。
 神様を信頼する、そして希望をかけて強く願う。これが奇跡の前の段階にあったことなのです。
 なんとなく「奇跡が起きたら良いなあ」と思うのではありません。信頼を込めて、希望を込めて強く願うこと、そんなことを私達も学び取れたらなと思います。


12月 クリスマスと教皇来日

  38年ぶりのローマ教皇の来崎を祝った熱気が今も残っている気がします。このニュースレターを準備しながら写真を見ているとあの日の出来事がまぶたに浮かんできます。雨の中、爆心地公園そしてビッグNスタジアムで待ちわびる大勢の人々の姿、パパモービルでフランシスコ教皇がスタジアムに入ってこられたときの喜びの大歓声、全てが深い印象を残しました。82歳の高齢にも関わらず素晴らしい笑顔で私たちに言葉、そして言葉以上のメッセージを伝えてくださった教皇様に心からの感謝を申し上げたい気持ちでいっぱいです。このようにしてお迎えした教皇様です。であるならば神の子であるイエス・キリストをお迎えするにあたって私たちはどのように準備をしなければいけないことか。12月は主のご降誕(クリスマス)をお祝いします。完全な神であり、完全な人間である方、イエス・キリストのご降誕を待ち望む私たちは、清い心で準備をする必要があります。清い心、それは自己中心の閉鎖的な心ではなく、私たちの傍にいる人(家族、友人、仲間、同僚など)に開かれた心ということができるでしょう。日々の日常の中で、身近な人に心を込めて挨拶をすること、必要なら手助けをすること、そんなことを通してこの年末を過ごしましょう。


 9月 信じる力

 2学期がスタートしました。9月に始まって12月に終わるので、2学期終業式の頃は寒い冬になっていることでしょう。この長い時間をどう使うか、それは私達次第です。今という時を最大限に活用するために必要なこと、それはなんでしょうか?それは目標です。どうしても達成したい目標があるときに、人は計画を立て、それを実行するように努力をします。昔の人は言っていました。「夢なき者に理想なし/理想なき者に計画なし/計画なき者に実行なし/実行なき者に成功なし。/故に、夢なき者に成功なし。」真理だなあと思います。夢、理想、目標、将来のビジョン、いろいろな呼び方ができますが、共通していることがあります。全ては今現実のものではない、触れることはできない、見ることはできない、ということです。それらに希望を託すことができるということは、別の言い方をすれば「信じることができる」ということです。私達たちが何かを成し遂げることができるとすれば、それは「信じる力」があるからです。どうしたらその力は身につけていくことができるのか?いろいろな方法があるかもしれませんが、一つ確実に言えるのは祈ることによってです。イエスの弟子たちは、最初から信じる力を持っていたわけではありません。イエスを間近に見て一緒に過ごして初めて信じることができるようになっていきました。私達も祈ることでイエスと付き合い、触れ合うことができます。祈りを大切に、それを思いながらこの2学期を始めていきましょう。


 7月 英雄的瞬間

 夏休みが近づいてきました。夏休みにはいつもより自分で時間をコントロールできることが多くなるのではないでしょうか?朝起きる時間、勉強を始める時間、遊ぶ時間、夜寝る時間など、ある程度自分で予定を決める場面に出くわすのが夏休みです。普段はあまり考えずに、決められた時間割をこなしている私たちですが、こうした機会に改めて自分の時間の使い方を見つめ直すチャンスではないでしょうか?そこで思い出して欲しい聖ホセマリアの言葉があります。『英雄的瞬間。さあ、時間きっかり、起き上がる時刻だ。きっぱりと、心に一つ、超自然的な考えを浮かべ、さあ…、跳ね起きるのだ。英雄的瞬間。これこそ、意志を強め、あなたの気質を弱めることのない犠牲である。』(道、206番)


6月 聖ホセマリアについて

 626日は、カトリック教会の暦の中で、聖ホセマリアの記念日になっています。オプス・デイの創立者である彼の教えの中心は、全ての人は今いる場所や環境の中で神様と出会い、そして、神様に祈りながら人間として完成に至ることができる、つまり聖人になることができるというものです。私たちの今いる場所や環境とは、つまるところ日常生活の些細な出来事の中でということになります。学校に行って友達や先輩そして先生との関係の中で、あるいはそれぞれの家庭の中で、勉強やスポーツをしながら、単に将来のために準備をするだけではなく、自分が一人の人間として成長するための機会に全てを変えていくことができるというものです。そうやって見ると、日常生活のモノトーンがフルカラーの現実に変わっていくことを体験することができます。 


5月 聖母に捧げられた月(聖母月)

 5月になりました。カトリック教会では伝統的に、5月を聖母月と呼んでいます。今月は特に聖母のことを思い出しましょう、という信心で、盛んになってきたのは18世紀のイタリアにおいてでした。日本とイタリアは緯度も同じくらいで、海に囲まれた国という共通点もあります。私もローマに3年ほど住みましたが、月ごとの季節感はだいたい同じようなものでした。(もちろん違いはありますが!)イタリアでも日本でも、5月は四季折々の中でも春の訪れとともに自然界の実りを最も身近に感じさせてくれる季節です。そして、青空が美しいのも5月の特徴です。霊的な生命の源である聖母、そして伝統的な聖母の絵画には必ず青いマントを羽織っている姿が描かれている、そんな諸々のことを考えてみると、5月が聖母月と呼ばれていることも納得できます。
 先月末、私は高校サッカー部の皆さんとポルトガルのファティマというところに約10日間行っていました。スペイン、イギリス、リトアニア、クロアチア、そして南米のコロンビアからも参加者が集まってサッカーの大会が開かれ、それに招待されたので参加してきたわけです。圧倒的多数を占めるスペイン人のパワー(陽気さ、元気さ、明るさ、親しみやすさ…)に驚きながら、とても有意義な日々を過ごしました。サッカーのことはさておき、このファティマという地は1917年に聖母マリアが出現したことで一躍有名になった村です。貧しい牧童3人に、不思議な出来事ではありますが聖母マリアが現れ「たくさん祈ってください。なぜなら多くの人が罪を犯して地獄の滅びに行ってしまっているから。あなた方がそのかわいそうな人たちのために祈ってあげるのです。」そんなメッセージを伝えたのです。
 この聖母月にあたって、私たち一人ひとりがもっと祈る人になる、特に助けを必要としている人に手を差し伸べることができる人になる。そんなことの大切さを思い出したいなと思います。   


平成30年度
3月の説教

感謝の心

 3月になりました。卒業式のシーズンですね。
 当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなる、そんなことを体験するとても良い機会です。いつもの通学路、いつもの学校、いつもの先生、そしていつもの同級生。それらすべてが、卒業と同時にいつものことではなくなります。そうなった時に改めて色々なことが見えてくるものです。何気なく学校に通っていたけれど、実はとても多くの方々のおかげで通えていたこと。朝ごはんを用意してくれるお母さん、バスを安全に時間通りに運行させている運転手さん、そして学校でもなんと多くの先生や仲間に助けられていたことか。そんなことに気がつくと感謝の心でいっぱいになります。
 感謝する心は美しいものです。平凡な毎日に彩りを与えてくれます。「ありがとう」という言葉は人々に笑顔を与えてくれます。今日1日、僕は何回「ありがとう」と言ったかな?そうやって振り返ってみるのはとても良いことです。「ほとんど言っていなかったな。」「もうちょっと言えばよかったな。」そんなことに気がついたら、その時が再スタートのチャンスです。「ありがとう」をたくさん言おう!という決心をするチャンスです。
 ところで、先日面白いことを読みました。
 
 子どもの頃から、私たちは「何かいいことがあったら、感謝しなさい」と教えられてきたと思います。それはそれで良いことです。
  でも、ここでお伝えしたいことは、「いいことがあったから感謝するのではなく、感謝するからいいことがある。」ということ。別の言葉で言い換えれば、「運がいいから感謝するのではなく、感謝するから運がよくなる。」「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる。」ということです。  

『中井俊已メルマガ“心の糧・きっとよくなる!いい言葉”参照』

 
 「いいことがあったから感謝するのではなく、感謝するからいいことがある。」言われて初めて、そうそう!その通り!と膝を打つ言葉です。私たちの周りにたくさんのいいことがあふれるように、「ありがとう」という幸せの種まきをしていきたいものです。


2月の説教

人間の自由について

 先日、ある中学生と話をしていたときのことです。「君は今、自由を満喫しているの?」と私が問いかけると、「う〜ん。」と考え込んでしまいました。そして、「いや、あんまり自由じゃないです。」と答えが返ってきました。宿題をしないといけない、習い事に行かないといけない、塾に行かないといけない…。しないといけないことがたくさんあって自由時間がないというのです。
 
  それは確かにその通りでしょう。やるべきことは年齢とともに増えていくのが普通です。そうなった時に「あぁ、自由じゃないな。」と考えてしまうわけです。でも、ここで私たちはちょっと立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか?
 
 年齢とともに、つまり、大人になるにつれて自由を失うなら、そんな自由に価値はあるのでしょうか?
 
 人間にとって自由というのは欠けてはいけない大切なものだと思います。偉大な価値を持っているのが自由というものです。でも、それが年齢とともに、大人になるにつれて、どんどん失われていくというのは、何かおかしいのではないでしょうか?ひょっとして自由であるということの捉え方が間違っているから、その結果として、「僕は自由ではない」と思うのではないでしょうか?
 
 自由であるとは、好きなことを、好きな時に、好きなだけできること。そう捉えると、私たちは確かに不自由だらけになってしまいます。そして、このような自由を手に入れようと思えば、私たちは一人ぼっちで誰にも邪魔されないところで生きる必要が出てきます。そうやって手に入れた自由は、私を本当に幸せにしてくれるのでしょうか?
 
 私を幸せにしてくれる、本当に価値ある自由というのは、好きなことを、好きな時に、好きなだけできること、という捉え方のもっと向こうにあると言えます。それを味わうことができれば、私たちはもっと喜んで、もっと充実して日々を送ることができるはずです。
 
 なぜ喜べるのか?それは私が自分の意思で選んだことだから。
 
 なぜ充実した日々を送れるのか?それは私にとって大切なことをしていると知っているから。
 
 本当に自由であるというのは、私が選んだことだという確信に基づいていて、選びとったことは私にとって本当に良いことなのだと知っていることなのではないでしょうか。つまり、自由であるとは、自分にとっての善を、自らの意思で選びとっていく能力と言えるのです。そこには、いやいや「させられている」感じは全く入る余地はありません。主体的に、より良いことを、私の意思で、選び取ること、それができればどんな状況でも自由を満喫できるのではないでしょうか?そういう自由を味わえる人になれたら素晴らしいと思います。


12月の説教

目に見えないもの

 今年も最後の月になりました、早いものですね。ところで、今から10年以上も前の映画に、次のようなシーンがありました。
 
 〜街の駄菓子屋の店主で売れない小説家の主人公は、同じ街の飲み屋の女将に恋心を抱いていました。でも、プレゼントを買うにも彼は貧乏でお金がない。せっかく借金までして手に入れたお金も、訳あって、他のことに使ってしまいます。そんな中、彼はクリスマスイブの夜、思い切ってプロポーズをしました。差し出したのは、指輪のケース。ところがです。ふたを開けると中身は空っぽ。主人公は言います。「今の僕にはケースを買うお金しかなかったけど、原稿料が入ったらきっと指輪も買うから。」女将は、少し無言のあとで、こう答えます。「この指にはめてちょうだい。」主人公は、何も入っていないケースから、そっと見えない指輪を二つの指で掴み、彼女の薬指へとはめてあげました。〜
 
 ロマンチックないいお話ですね。身の丈に合わない豪華な指輪より、純粋な真心のこもった見えない指輪の方がこの女将さんの心に響いたわけです。
 
 12月と言えば、クリスマス。街にはクリスマスソングが溢れて、綺麗なイルミネーションが夜を美しく飾っていることでしょう。でも、本当のクリスマスはそうではありませんでした。2000年ほど前の、ベツレヘムという小さな村の馬小屋で、ひっそりと聖マリアと聖ヨセフが幼子イエスさまの誕生をお祝いしたのです。暖かな部屋ではなく、寒い風の吹きこむ貧しい馬小屋でイエス・キリストはお生まれになったわけです。
 
 「本当に大切なものは、目には見えないんだよ。」こんなセリフを以前どこかで読んだことがあります。目に映る豪華なクリスマスのイルミネーションや賑やかなクリスマスソングではなく、目には見えない2000年前の貧しい馬小屋を思いながら、本当のクリスマスを味わうことができれば素晴らしいなと思います。  


 11月の説教

死者の月

 11月になりました。カトリック教会の伝統では11月は死者の月と呼ばれています。
 
 それに関して、私がスペインへ留学しているときに非常に印象深い光景を目にしたことを思い出しました。私はスペイン北部のナバラ県パンプローナ市という牛追い祭りで有名な街にあるナバラ大学というところで神学の勉強をしていました。当時は学生寮に住んでいたのですが、そこに住んでいた人たちとある日の午後、郊外の墓地に行くことになりました。ボランティアで公営墓地の掃除をしに行くという活動に私も参加したのです。それは11月の初旬でした。
 
 当然かもしれませんがスペインで墓地に行くという機会はそれまで全くなかったので、ヨーロッパのお墓はどんなものなのだろうと興味津々でした。箒やちりとり、雑巾やバケツを持っていざ墓地に到着しました。それはそれは広々とした場所で、緑の多い公園のような雰囲気でした。一つ一つのお墓もゆったりと作られていて長い歴史を感じさせるもので、おそらく何世紀もこうして佇んでいるのだろうな、と思わせるような古いものもありました。そして大勢の家族連れが花や掃除用具を持って歩いており、墓地全体は秋の休日をのんびり過ごしているといった雰囲気でした。そんな墓地を清掃して歩いていると、他のところより広い区画があり、そこに総勢15名くらいの人がまるでピクニックを楽しんでいるかのように飲んだり食べたり楽器を演奏したりして楽しそうにしている姿があったのです。そしてお墓の周りには直径が15センチくらいもあるような大きなロウソクが何本も立てられていました。それは一箇所だけではなくて、所々で同じような集まりをいくつも見かけました。おそらく彼らは亡くなってお墓に葬られている家族の人たちと一緒に家族団欒のひと時を楽しんでいたのでしょう。
 
 カトリックのミサには「死者のためのミサ」というものがありますが、そのミサ典礼文では「命は奪いとられるのではない、在り方を変えるのだ(Vita mutatur, non tolitur)」と唱えます。ですからカトリックの信仰では、亡くなった家族はどこか遠くへ行ってしまったというより、在り方を変えて今も私たちと一緒にいるのだと考えているわけです。私たちはいずれ死の時を迎えます。それは永遠のお別れというよりも、「また後ほど」という一時的なお別れであると言えます。 
 
 聖ホセマリアは「死は、「人々」を立ちすくませ、恐れを抱かせる。しかし、死、つまり永遠の生命は私たちを元気づけ、励ますのである。」(『道』738番)と書き記しています。11月は死者の月ですが、それは私たちが今の時をよりよく生き、いずれやってくる死を喜んで迎えられるように準備をし、そして既に亡くなっている人のことを身近に感じながらたくさんの取次をお願いするように促されているわけです。


 10月の説教

せいじん?

 10月2日はオプス・デイの創立記念日です。1928年のこの日マドリッドで黙想会をしていた聖ホセマリアは「今置かれた場所と状況の中で全ての人は聖人になることができるし、聖人にならなければならない」という神様からのメッセージを受けました。そして、そのメッセージを人々に伝え実現するためにオプス・デイを創立しました。
 
 この教えは多くの人にとって目新しいものでした。実際、この記事を書くにあたって「せいじん」とパソコンで入力すると、「星人」(ウルトラマンの影響?)とか「成人」がまず出てきます。「聖人」はまず出てきません。ですから聖ホセマリアが「全ての人は聖人になれるし、ならなければならないのです。」(『道』282番参照)と言っても多くの人々にはピンとこなかったのです。それは聖ホセマリアの言う聖人という言葉が正確に何を指しているのかを知らないことからもきているかもしれません。辞書を引くと「聖人=知徳がすぐれている理想的な人物」となります。そんな人に自分がなれる?なれるわけないでしょ、と言いたくなるものです。
 
 理想的な人になろうと聖ホセマリアは言っているのではありません。理想的な人というのは空想の産物、もっと乱暴に言えば“あり得ない変人”ではないでしょうか。「聖人たちは近代医学の研究材料になるような不具者ではなかった。聖人たちは今も昔もあなたと同じ肉体を持った正常人である。ただ彼らは打ち勝ったのだ。」(『道』133番)。「(勝つためには)次のことばに尽きる。始めること、そして、再び始めること。」(『道』293番)。
 
 完全無欠の人が聖人と呼ばれるのではなく、失敗してはやり直し、転んでは起き上がる、それを最後まで続けた人が聖人と呼ばれるわけです。それなら私たちにもできそうです、神様の助けを得ながらであれば。日常生活の各瞬間において、自分との戦いにおいて勝てるように、何度でも「始める」ことができますように神様お助けください、と祈ることから始めたいと思います。


 9月の説教

小事は大事

  今年は本当に暑い夏でした。ニュースで「災害級の」暑さという言葉を何度も聞いたものです。それまでは猛暑、酷暑という表現は聞いたことがありましたが、初めて耳にするような形容詞が付く夏だったわけです。9月になってそんな夏の暑さも一段落して来ました。ありがたいことです。
 
 ところで、この夏の暑さの中でちょっと考えたことがありました。もしこの夏エアコンがなかったらどうなっていただろうかということです。それはなかなか想像ができません。日々の生活の中でエアコンはとても大切な役割を果たしていました。ところでもう少し考えてみました。冷房を効かせるには電気がいる。ではその電気をどこから得ているのだろうか?調べてみると、天然ガスや石炭そして石油を燃やす火力発電が全体の8割以上であることがわかりました。ものを燃やしたら二酸化炭素が出ます。ここでまたふと思い出します。数年前のニュースでパリ協定というのがあって温室効果ガスの削減が世界的に定められたというものです。日本も結構大胆な削減案を採択していたと思います。それは多くの人が危機感を持って、このままではいけないと感じていたことの結果でもあります。でも最近はガスの排出を何とか減らしていきましょう、そのために節電をしましょうという話はさっぱり聞きません。
 
 私たちは何だか色々なことに流されているのかもしれないなと思いました。場当たり的にちょっと大騒ぎはするけれど、喉元をすぎるとすっかり自分とは関係のないお話になってしまう。これはちょっといけない兆候です。事態をより深刻なもの、取り返しのつかないものにしてしまうからです。
 
 日々を少し振り返ること、小さなことをおろそかにしないこと。小事は大事。何かにつけ、ふと気がついてこれはちょっとなんとかしなければいけないと感じたら、自分なりに一つか二つの小さいけれど具体的な決心をすること。そして、それができているのかどうかを毎日振り返ってみること。そんなことの積み重ねが大切なんだろうなと思います。
 
 2学期が始まりました。私達の毎日には小さなことがたくさんあります。朝時間通りに起きること、家族に挨拶をすること、朝ごはんをきちんと食べること、バスマナーを守ること等々、数え上げるとキリがありません。そして、私達が過ごしている日々はかけがえのないものです。この与えられた日々を無駄にしないために、小さなことを大切にするような毎日にできたらなと思います。
 


7月の説教

聖ホセマリアの人生

 先日、6月26日は聖ホセマリアの記念日でした。聖ホセマリアは1902年1月9日にスペイン北東部の小さな町バルバストロでエスクリバー家の2番目の子供として生まれました。ごくごく普通の少年でしたが、ある冬の早朝、街路の雪の上に残った裸足の足跡を見て神さまが自分に何か特別なことを望んでおられる予感を感じたそうです。その予感が何であるのか少年ホセマリアにはハッキリとはわかりませんでした。でも大切なことに違いない、その為にはまず神さまと親しく交わる神父になろうと決心します。15歳の冬でした。何かは具体的にはわからない、でも偉大な何かに自分は召されていると思う、その信念に忠実に従って、祈りの中で最善と思われる道を考え、すべきことを実行して行きます。皆さんと同じような世代の少年ホセマリアはこうして人生を切り開いて行きました。
 
 今の時点で自分が将来何に向いているか、何になるべきかをはっきりとわかっている人はあまりいないかもしれません。でも、一つはっきりしたこと、中学生・高校生である皆さんが例外なくすべきことがあります。それは全力を注いで勉強すること。それ抜きには将来の自分が果たすべきことを発見し、その役割に対して責任を持って取り組むのは難しいでしょう。「神さま、私が将来何をすべきか教えてください。」と願いながら勉強すること、それはとても大切なことでしょう。
 
 聖ホセマリアはその著書『道』の中で次のように言っています。「勉強しなさい。勉強に精を出しなさい。塩と光となるべきあなたには、学問が必要である。」
 
 期末テストが終わった今、もちろん一息つくのは必要かもしれません。でも、今こそ目先の結果にとらわれずに腰を据えて勉強に励むときが来ているとも言えます。未来の社会を明るく照らし、腐敗から守る塩となるために、自分がすべきことを早く発見できるように、全力で勉強に励むことが不可欠です。


6月の説教

節目というもの

 6月になりました。6月は高総体そして中総体という大きな行事があります。運動部に所属している人も、あるいは直接関係ない人も、この節目の大きな行事をうまく活用できたらなと思います。節目というのはしっかり意識して過ごす人にとってはとても意味深いものになっていきますから。好むと好まざるとによらずやってくる節目ですが、それを迎える時に、ある人はじっくりと考え自分を振り返って今後の生き方を決めていきます。 
 
 先日、ある女性の波乱に富んだ一生についての記事を読みました。その方の名前は井深八重さんと言います。1897年に由緒正しい家庭に生まれ、聡明な彼女は女学校で英語の勉強をして長崎県立女子高等学校に英語の教師として赴任して来ます。良い縁談にも恵まれ人生は順風満帆かと思われていました。しかし、22歳のある時運命は突然変わります。体の一部に赤い斑点ができ、それがなかなか消えなかったのです。診察を受けますが結果は知らされず、静岡県にある神山復生病院というところに連れて行かれそこで初めてハンセン病と宣告されたのです。当時この病気は「恥ずべき業病」と呼ばれ、出生や生い立ち、肉親・家族・友人などとの関係、過去の一切を断ち切らせるために本名を捨て、新しい別名を与えられます。八重さんは、毎晩泣き明かし、絶望のあまり何度も自殺を考えました。ところが3年後、期せずして診断が誤りであることが判明します。本来なら喜び勇んで元の生活に戻っていくところでしょう。しかし彼女は違いました。その病院で過ごした3年間は彼女の心を大きく変えたのです。祖国や財産、名誉などの全てを投げ打って働くフランス人院長のドルワール・ド・レゼー神父の献身的な姿をつぶさに見たのでした。彼女は自分もこの病院に残ろう、そして院長神父と共に世界から見捨てられた患者さんのために働こうと決心したのです。その後八重さんは病院初の看護婦としての資格を取得し、69年間働き続け91年間の生涯を閉じます。八重さんには思いがけず次々と節目がやって来たわけです。その度に、苦しみながらもしっかりとそれまでの人生を振り返り、目で見たものや体験したことを味わい、人生の進路決定をしたことでしょう。その生き方は今でも語り継がれています。
 
 私たちも節目の時を迎えた時にしっかりと決断できるようになりたいものです。そのためには、自分にだけ頼るのではなく、まず何よりも神様に頼り、心を開いて祈るような態度を磨いていけたらなと思います。
 


5月の説教

爽やかな空気の秘密

 5月になりました。スカッと晴れた日は太陽がじりじりと照りつけて夏を感じることができるし、日陰に行くと気持ちの良い風が吹いて新緑を感じることができるという、一年のうちでも本当に素晴らしい時期を私たちは過ごしています。こうして気持ちの良い季節を過ごしている私たちですが、ちょっと自分自身について振り返ってみましょう。「私は自分自身の周りに爽やかな気持ちの良い空気をもたらしているのかな?」
 
 爽やかな空気をもたらすことができるかどうか、それは私たちの心の中に爽やかな風が行き渡っているかどうかにかかっています。閉じた心では空気は淀みます。心を開け放つことが大切でしょう。心の窓をしっかりと開けて風を行き渡らせること、それが「祈る」という行為ではないかなと私は思います。神様に向かって心を開いて、「今日は学校でこんなことがありましたよ。いやあ、楽しかったです。」「明日は小テストがあります。僕も頑張ってこの宿題をしますから、良い点がとれるようにどうか助けてくださいね。」そんなやりとりを神様と心の中で行なっていくこと。こうして自分の心の中に常に爽やかな風を感じることができるでしょう。こうやって神様と対話しながら生きた人はたくさんいますが、その中でも代表的な人が聖母マリアでしょう。彼女の周りにはいつも爽やかな空気があったと私は思います。彼女を通してたくさんの人が神様に近づいたのです。5月は聖母月とも言われています。アベマリアの祈りやロザリオの祈りを勉強の前や寝る前に心を込めて唱えてみることで、心の中に神様の爽やかな風が流れ込むことは間違いありません。
 


 4月の説教

春、それはスタートの季節

 4月になりました。新しい学年、新しい環境でのスタートです。爽やかな春の風に吹かれて、「よし、頑張るぞ!」とみなさんも気持ちを新たにしていることでしょう。私たちの周りにある草花も、生命力に溢れてその美しさに磨きをかけています。
 さて、この4月にちょっと注目したいのは「礼儀」というものです。一人前の人間として成長するのに欠かせないものだからです。皆さんは「礼儀正しい人」と聞いた時、どんな人を思い描きますか?私は、ピシッと姿勢の美しい清々しく気持ちの良い人というイメージを思い浮かべます。辞書で「礼儀」を調べてみると、人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式とあります。それは人間関係における潤滑油のようなものと言えるかもしれません。礼儀のなっていない人は、整備されていない油の切れた自転車のような人。乗るたびにギコギコと不快な音を立てるので乗っている人も周りの人も嫌な気持ちになります。逆に礼儀正しい人はキッチリと整備された自転車のよう。スイスイと進んでどこまでも走って行きたくなるのです。
 家族や友人、先生や先輩に対する礼儀正しが大切であるのならば、私たちが毎日お付き合いする神様に対しても礼儀を尽くす必要があるのも想像に難しいことではありません。神様は「失礼な子だから、お恵みは少なめにしておこう」と仰ったりするような方ではありません。問題なのは、私たちが礼を忘れた時、神様に対してどんどんと横着になっていってしまうことです。そうすると、神様への扉がどんどん閉じられていってしまいます。それは残念なことです。神様への扉はいつもいっぱいに開かれていますように。
 色々なことが新たにスタートするこの時期、ピシッと美しい姿勢で清々しく気持ちの良いスタートを切りたいものです。日常生活の潤滑油である「ありがとう」「ごめんなさい」「よろしくお願いします」「どういたしまして」という言葉を大切にしつつ、春風にのりながら毎日を気持ちよく過ごして行きたいなと思います。(硲)


平成29年度
3月の説教

大きな原動力、「感謝の心」

 3月になりました。今年度も残すところわずかになりました。そして、多くの人を熱狂させた平昌オリンピックも終了しました。開催されるまではどうも盛り上がりに欠けるているのではないか、などと思っておいましたが、いざ開幕してみると日本勢の活躍もあって連日メダルの行方が気になるほどでした。皆さんは何に一番心動かされたでしょうか?
 
 私は羽生結弦選手の金メダルでした。宇野昌磨選手と共に金・銀メダルの日本勢ワンツーフィニッシュ。冬季五輪では表彰台を独占した1972年札幌大会スキージャンプ70メートル級(笠谷幸生、金野昭次、青地清二)以来2度目、46年ぶりのこと。羽生選手の連覇も66年ぶりのこと。しかも、平昌今大会日本の金メダル1号は、冬季五輪通算1000個目の金メダルでもありました。
 
  実は、この活躍まで私は羽生選手に全く関心を持っていませんでした。何だか世間で騒がれているアイドル的な人なのかなという程度の認識だったわけです。しかし今回色々な記事を読む中でそのすごさに気づくようになったわけです。度々このお説教でも引用しているのですが、中井俊己氏のブログで以下のような記事を読みました。
 
  「2011年3月11日、羽生選手は、地元・仙台での練習中に東日本大震災に遭いました。スケート靴のまま、泣きながら這って外に逃げたそうです。自宅は半壊し、家族で避難所暮らしも体験。リンクが復旧するまでの4か月は、60公演ものアイスショーに出演しながら練習を続けました。「あれ以上に苦しいことも悲しいこともない」と後に語ったそうです。たくさんの応援をもらい励まされました。だからいつも、彼のスケートは周囲への感謝の気持ちが原動力になっています。12年に拠点をカナダ・トロントへ移しましたが、自宅とリンクを往復する日々は今も変わりません。コンサートにもスポーツ観戦にも出かけたことはありません。スポーツの現場に足を運んだのは、地元J1仙台のキックイン(始球式)とプロ野球・楽天の始球式だけ。これは、地元の人々に感謝するためです。彼は、様々なものを犠牲にしながら、スケートで勝つことに全てを費やしてきたのです。」
 
 色々な試練や挫折を経て、当たり前なことなど何一つなく全ては感謝すべきことなのだ、というような心持ちでスケートに打ち込んで来たのではないかなと想像できます。羽生選手の努力や才能もさることながら、「あらゆることに感謝する」という心持ちが金メダルへの大きな原動力になったのではないでしょうか。
 
 この3月、私たちは1つの節目を迎えます。当たり前のことなど何一つなく、全ては与えられ支えられて成り立っていることに思いを馳せたいと思います。家族、友人、そして天におられる私たちの父である神様に感謝を捧げながら過ごしていけたら素晴らしいなと思います。


2月の説教

履物を揃える自由

  先日から渡辺和子さんの書かれた本を何冊か読んでいます。とても素晴らしい話がたくさん出てきて、多くの気づきや発見をさせてもらえます。その中で出てきたちょっと興味深いお話を紹介しましょう。
 
 渡辺和子シスターは36歳という異例の若さで岡山にあるノートルダム清心女子大学の学長に就任します。大変重い責任を担う仕事をその後30年近く務められます。その間、うつ病を患うことも経験されますし、1984年にマザー・テレサが来日された時には通訳も務められました。その後、学長職は引退されるのですが、ふとしたことで東京の自由学園というところで、キリスト教価値観という講義を3年間担当されます。自由学園というのは初めて聞く学校の名前でした。調べてみると、キリスト教の精神に基づく幼稚園・小学校・中等科・高等科そして大学に相当する最高学部を持っている学校でした。一学年一学級、そして調べれば調べるほど、面白いユニークな学校であることがわかりました。オノ・ヨーコや坂本龍一、あるいはノーベル化学賞をとった野依良治もこの学園の出身のようです。ユニークさの一端を紹介する新聞記事があります。タイトルは「給食ではなくお食事 自由学園で96年続く昼食とは」というものです。毎日の昼ごはんをつくるのは、中高生自身。当番の生徒が全員分を調理して用意する方法を96年間続けているそうです。当番は、中等科1年から高等科2年までが1学年ずつ日替わりで務める。学年の半数の生徒が3、4時間目の授業で食事を作り、残りの半数は食器の後片付けを担う。どんな学校だろう?と興味がどんどん湧いてきます。この学園の創立者は羽仁もと子(1873-1957)という女性です。その方がおっしゃった短いフレーズにこの学園の創立の精神が表されています。
 
「皆さんには、履物を揃えるという自由があります。」
 
 人間は良い生き方を選択するために自由を与えられている、そのためには、何が良いことであるかを自らに問い、与えられた自由をどのように使えばよいのか、自分で考え、判断し、行動することが必要なのです。その行動の結果、自分もそして周りの人も幸せになって行くことができるのです。それを端的に表したのが上記のフレーズだと思います。
 
 私たちも一人一人が「自由な人になる」ということについて思いを馳せてみる必要があるなと感じさせられました。
 


 1月の説教

王さまのご命令

 明けましておめでとうございます。今年も無事にお正月を迎えることができたことに感謝したいと思います。2018年がみなさんにとって、実り豊かな年になりますように。
 さて、先日本を読んでいて面白いお話に出会いました。読んでいたのは渡辺和子シスターの書かれた『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラーになっている本でした。そこにこんな短い言葉が紹介されていたのです。
 
「王さまのごめいれい」といって、バケツの中へ手を入れる。
「王さまってだれ?」
「わたしの心のこと」
 
 これは小学6年生の女の子が書いた短い詩のようです。冬の寒い朝、雑巾をしぼるために冷たい水の入ったバケツに手を入れたのでしょう。「いやだなあ」「冷たいだろうなあ」という気持ちが心の中にわきあがってきたことでしょう。でも、エイっとバケツの中に手を入れる女の子の姿が思い浮かびます。彼女を動かしたのはなんでしょう?それは彼女の「心」でした。それは私たちの中にも確かにあるものです。「いました方がいいよ。」「いま起きないと。」「後回しにしてはダメ。」そういった声が私たちに響くところ、それが私たちの「心」です。
 新年にあたって決心をたてたいと思います。わたしたちもあの女の子に負けず「王さまのごめいれい」に耳をしっかり傾けてそれに従うことができますように。寒くて布団から出るのが難しい朝、あるいはコタツの中でゆっくりとくつろいでいるときにお手伝いを頼まれたとき、さらには楽しいゲームの時間がそろそろ終わって寝る時間がきたとき、我慢して、いやいや、しぶしぶするのではなく、朗らかに「王さまのごめいれい」という気持ちで心の声にパッと従うこと。きっと爽やかで清々しい心持ちになるでしょう。こうやって毎日コツコツ過ごして行くことができれば、2018年は確実に実り豊かな一年になることでしょう。楽しい一年のスタートです。


 12月の説教

賢者の贈り物

 12月になりました。ある中学生が次のように言っていました。「12月は本当に色々あって楽しみ過ぎて困るくらいです。」確かにその通りです。学期末の映写会、球技大会、終業式、冬休み、クリスマス、大晦日、お正月。数え上げると本当にたくさんの待ち遠しい出来事が待っています。
 ところで、この時期になると思い出す物語はたくさんありますが、そのひとつにオー・ヘンリー作の『賢者の贈り物』があります。貧しい若い夫婦がクリスマスを前にして互いに心のこもった贈り物をするお話です。奥さんの名前はデラ。「褐色の小さな滝のようにさざなみをうち、 輝きながら彼女のまわりを流れ落ちていく」、ひざまで届くような美しい髪を持っていました。旦那さんはジムといい、代々親子で受け継がれてきた美しい金の懐中時計を大切にしていました。でも二人にはプレゼントを買うお金がありません。とても惨めな思いだったでしょう。デラはそこで自分にとって一番の宝である美しい髪を切ってそれを売りました。手にしたお金で町中のお店を見て回り、ついに素晴らしい物を見つけます。それはプラチナでできたとても上品な鎖でした。「ジムの金の懐中時計にぴったりだ!」と思ったことでしょう。こうしてデラはジムへのプレゼントを用意することができました。さて、仕事から帰ってきたジムは、家の扉を開けてびっくりして言葉を失います。デラのあの美しい髪がなかったからです。そしてプレゼントを受け取ります。開けた時のジムはさらに言葉を失います。なぜならその鎖をつけるはずの時計はもう無くなっていたからです。ジムはデラの美しい髪にぴったりの宝石で縁取りされた鼈甲の櫛を買うために、大切な時計を売ってしまったのです。二人はそれぞれ自分の大切なものを手放して、相手のために一番いいものを手に入れてプレゼントをしたのでした。
 オー・ヘンリーはこの作品を次のような言葉で締めくくっています。「贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。 贈り物をやりとりするすべての人の中で、この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。」この作品は、クリスマスにお生まれになったイエス様を訪問する東方の賢者のお話を土台にしています。神様はこの世界へのプレゼントとして神の御子をこの地上に御遣わしになりました。そのイエス様は、最初の30年間はナザレの小さな村で大工として働き、その後の3年間は神様の救いを人々に告げ知らせ、最後には十字架の上で亡くなりました。一見すると何の役にも立たないプレゼントのようです。でも愛する人にとっては最上のプレゼントとなりました。神様の愛、そして人間の愛が出会うのがクリスマスです。そんなことを思い出しながら、みなさんにも、このお話をもう一度ゆっくり読んで味わってみることをお勧めします。


 

11月の説教

天国からの母親の愛

 あるドイツ人の神父様の子ども時代の話です。その神父様は7人兄弟でした。皆、男の子。腕白でいたずら好きな子どもたちばかりだったそうです。あるとき8人目の子どもをお母さんがお腹に宿します。でもその妊娠は大変困難な状況だったようです。「妊娠を中断すれば、母親は助かる。でも生めば、母親の命は助からない」そう医師から宣告されます。子どもは、一番上が12歳、下の子に至っては1歳でした。皆、母親を必要とする小さな子どもたちばかりです。彼女はずいぶん悩みました。愛する夫と相談し、祈り、そして決断しました。
 7人の子どもたち全員を病室の枕元に呼んで、こう言ったのです。「いいかい子供たち、お母さんに、いよいよ神様のお呼びがきたみたい。それが神様のお望みだから、お母さんはお応えしなくっちゃ。でも、お母さんのことは、心配しなくていいんだよ。もうすぐお母さんは、天国に行くのだから。お母さんはおまえたちのような良い子どもに恵まれて、とても幸せだった。そして、天国でもおまえたちの成長を見ながら幸せだからね。さみしがってはいけない。泣いてはいけないよ。お母さんは、いつも、どんなときも、神様といっしょにおまえたちのそばにいるから。お母さんが、いつも、どんなときでも神様といっしょにおまえたちを守っているから。それを忘れちゃだめだよ。」
 やがて母親は8人目の子どもを生んで亡くなりました。子どもたちは、その後立派な大人となりました。時は第二次世界大戦の勃発の頃。戦争が始まると、男の子たちは皆、兵隊として戦地に送られました。かの神父様(まだ神父ではなかった)も、戦地で敵に捕まり、銃殺刑にかけられることになりました。目隠しをされ、仲間が一人、また一人と銃声の後、倒れていきます。「いよいよ、自分の番か」もはや最期とあきらめたとき、自分の直前で、なぜか刑の執行が中止され、救われたのだそうです。
 時はまた過ぎ、ドイツは終戦を迎えます。8人の兄弟は全員が無事に戦後を迎えることができました。敗戦国ドイツにおいては奇跡的なことです。その後、彼は「神父になって日本に行きたい」という少年の頃の夢をついにかなえました。ちなみに、母親の命と引きかえに生まれてきた赤ちゃんは、唯一の女の子でした。その女の子は6人の子どもの母親となり、いまでは多くの孫に囲まれているそうです。
 11月はカトリック教会では「死者の月」と呼ばれ、亡くなった家族そしてすべての人を特別に思い出します。私たちにも、それぞれ大切な人が天国にいることでしょう。その大切な人が私たちをしっかりと見守っていてくださる。だから私たちは決して一人ぼっちになることはありません。その事実を思い出して、亡くなった人が神様のそば近くで永遠に幸せでありますように、そして、私たちのことをこれからもしっかりと見守って下さいと祈るようにしましょう。


 10月の説教

 10月2日はオプス・デイの創立記念日です。今日はオプス・デイについて少しお話ししましょう。創立されたのは1928年10月2日スペインのマドリッドにおいてでした。その日、ホセマリア・エスクリバー神父様は黙想会をしていましたが、特別な神様からの霊感を受けて、神様が望まれていたことがはっきりとわかったそうです。その様子を語る時エスクリバー神父様はいつも「見た」という言葉を使っていました。「分かった」とか「感じた」ではなく「見た」わけです。では一体何を見たのでしょうか?
 
 それをより深く理解するには、キリスト教の歴史を少し紐解く必要があります。イエスキリストの弟子たちは漁師や収税人などの仕事をもつ普通の人々でした。その後キリスト教が世界に広がるにつれ、より神様のそば近くで生きたいと望む人々が、仕事や家族、つまり世間を離れて共同生活をするようになりました。それが修道生活の始まりです。修道者たちは静けさの中で神様との親しい祈りに専念して生きていきます。それはとても素晴らしい生活でしょう。なぜなら煩わしい日常の出来事から身を引いて生活しているわけですから。こうしてキリストを信じる者にとっての最高の生き方が修道生活であるという風に考えられていきます。そうすると、世間の人々は神様から離れて生きるしかないのでしょうか?世間で仕事をしながら生きている老若男女は神様を身近に感じながら生きることはできないのでしょうか?まさに、この点に光を投げかけるものをエスクリバー神父様が1928102日に見たのです。それは、「仕事や家庭生活などの日常生活のあらゆる場面で、全ての人は人間としてそして神様の愛する子供として成長し、ついには神の国にふさわしい人、つまり聖人になることができるし、そうならなければならない」という神様の望みを見たのです。そして、これを伝えるのがオプス・デイというものだったです。
 
 オプス・デイは、日常生活の小さな出来事にも神的な価値があることを教えます。私たちは今いる場所、今いる立場でそれぞれの仕事をしっかり果たしながら人間としての完成、つまり天国にふさわしい聖人になって行くことができることを教えます。
 
 創立者であるホセマリア・エスクリバー神父様が亡くなって26年後に聖人の位に挙げられる時、列聖式を司式したヨハネ・パウロII世教皇(のちにこの方も聖人になります。)は、聖ホセマリアを「日常の中の聖人」と呼んだのは的を射た表現でした。
 
 私たちも日々の仕事や勉強を通して、よりよい生徒、よりよい家族、よりよい人間になっていかなければいけません。それは私たち一人一人に神様から託された宿題のようなものと言えるでしょう。
 
 


 9月の説教

 9月になりました。再び日常がスタートします。といっても、多くの人は毎日学校に来ていたし、授業や補習、そして部活動で忙しくしていたことでしょう。でも、ここはひとつ区切りを付けて「よっしゃ。再スタートしようか。」と気持ちを切り替えることができたらいいなと思います。
 さて、先日のことですが、すごい仕事をしている方の話を耳にしました。お名前は中村哲という70歳を超えた医師です。九州大学医学部を卒業後国内の病院で勤務されていましたが、ふとしたきっかけで40代の頃にインドの西側にあるパキスタンのさらに辺境の地ペシャワールに赴任します。そこで20年以上もハンセン氏病と闘って来ました。その地域一帯を2000年に大干ばつが襲います。赤痢患者が急増し、清潔な水にアクセスでないがために命を落として行く人々、特に幼い子供達の姿に直面します。追い討ちをかけるように2001年にはアメリカ同時多発テロとその報復のアフガニスタン空爆が始まります。干ばつと空爆によって中村さんが働いていたペシャワールにもたくさんのアフガニスタン難民がやって来ました。そのひどい有様を見て、彼はアフガニスタンへ拠点を移して活動を始めます。彼は医療活動を続けたのでしょうか?いいえ、彼は医師としてではなく、土木技師として働き始めました。もちろん全くの素人です。でも一番必要だったのは、薬ではなく清潔な水だったので彼自ら文献を紐解きながら井戸の掘り方、水路の引きかたを学んでいきます。彼が掘った井戸は1600本、拓いた水路は27㎞に及びました。これによって砂漠化していたアフガニスタンの広大な土地が緑で覆われ農地に変わります。食べるものに困る状況がゲリラ兵を生むという悪循環にも歯止めをかけるきっかけになりました。
 こんなにすごいことをしてきた中村さんですが、その人柄は穏やかで控えめで、全く偉そうには見えません。実に謙虚で誠実な人柄がにじみ出ています。人の役に立つということ、それは中村さんの言葉でいうなら「困っている人がいたら手を差し伸べる。—それは普通のことです。」さらに言います。「私たちがアフガニスタンでしたようなことを、誰もがするように求められているとは思いません。ただこの日本の日常生活で、誰もが「人として行うべき」ことに出会います。そのとき、自分の良心に従って考える。たとえば、友達がいじめられているとき、どうすればいいか。たとえば、お母さんが病気の時に、どうすればいいか。そのときどきに、良心に従って行動する。そういうことを私たちはみな、求められているのだと思います」私たち一人一人が、私たちの暮らしている日常で困っている人を見つけ、そして自分が手を差し伸べること。こうして世界は少しだけ、でも確実に平和になっていくでしょう。


7月の説教

 先日、機会があって大学の授業を受けてきました。その日の授業は、「東アジア諸国におけるソーシャルメディアの普及と若者文化」というものでした。固い授業名でしたが、内容をざっと言うと、日本・韓国・台湾・中国におけるソーシャルメディアの普及によって、東アジアという地域はそれぞれの国の特徴を持ちつつも、各国で同じような現象が生じているというものでした。具体的な題材として取り上げられたのは各国のアイドルたちでした。その在り方を社会的文化的背景を踏まえて読み解いていくという興味深い授業でした。普段私はアイドルなどとは縁のない生活をしているので、先生が授業で挙げる人の名前はジャニーズの誰それ、Exileがどうのということで、おそらく多くの人にとって当たり前なのでしょうが、私には初めて聞くことばかりで戸惑いました。ともかく興味深かったのは大学の先生がこのテーマに真剣に取り組んでおられることでした。他愛もないアイドルのお話、というわけではなく、それを題材として人間というもののある一面に迫る研究をしているのではないかと思いました。
 人間というのは本当に面白いものです。自分も人間でありながら、自分のことがよくわからないものです。自分は何のために生きているのか?この一生で何を成し遂げるべきなのか?死んだらどうなるのか?さらには、日々の生活の中で頭でわかっていることやすべきだとわかっていることがなぜできないのか?などなど疑問は次から次に湧き上がってきます。それらの疑問に光を当ててくれるのは、アイドルの研究もさることながら、聖書を読み込んでいくことにあると私は思っています。そこに描かれているのは今から数千年も前の人間の姿ですが、登場人物は非常に生き生きとしていて、悩みや苦しみに直面しながらも様々なことをクリアしていきます。その時に重要な要素として常に強調されるのは、その人と神様との関わりです。神様に祈りや犠牲を捧げながら、あるいは神様に不平を申し立てながらも最後には痛悔して多くの人が救われていきます。
 7月は夏休みの季節でもあります。私と神様との関わりかたを少し振り返って見て、できれば聖書などを少し読むことができたら、きっと人間というものの理解が深まるのではないかと思います。


6月の説教

 6月になりました。高総体、中総体の季節でもあります。勝負事ですから勝ち負けはハッキリしています。勝てば嬉しいし、負ければ悔しいものです。勝負事だけではなく、日々の生活の中でも、他人から言われた一言や自分に対する他人の評価などによっても嬉しくなったり、悲しくなったり、悔しくなったりするのが私たちの毎日であるとも言えます。
 ところで、そんな日常の出来事に一石を投じるような人について聞く機会がありました。日本でも有名なゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんのことです。スウェーデン出身の彼女は生まれつき両腕がなく、左脚が右足の半分の長さしかないという障害を持って生まれました。でも、とても明るくて前向きな人です。パラリンピックにも水泳選手として出場もしました。その後彼女は音楽家として生きることを決意し、まず全米850か所でコンサートを開催し、1999年には大分国際車いすマラソン大会の開会式で美しい歌声を披露し人々を感動させました。そんな彼女の特技は何か想像できるでしょうか?彼女を幼少期から知る人は、どんな所にいてもすぐに何か楽しいことを見つけ出して喜んでいられることだった、と言います。「レーナ・マリアさん、あなたの喜びはどこからくるのですか?」マスコミの取材のたびに聞かれる質問に彼女はいつも同じように答えます。
 
「私の両親は、私を障碍者としてではなく一人の娘として育ててくれました。そしていつも『あなたは価値ある存在です。私たちはあなたをとても愛しています』と言って育ててくれました。けれども、それ以上に、神さまは私を愛してくださっていること、私には神さまの特別のご計画がおありになるから他の人と違う形に作られたのだ、ということを常に私に話してくれたのです。ですから、私は、この特別な体を神さまのために使っていただきたいと思っています。そうお祈りしていると、神さまがどんな時でも一緒にいて下さり、私の親友でいて下さることがわかって、いつも喜んでいることができるのです。」
 
 わたしの、そしてあなたの喜びはどこからくるものですか?勝つこと?褒められること?感謝されること?もちろん。でも、それらのどれよりももっと強い力で喜びを与えてくれる神さまとの友情ということを、祈りを大切にしながら味わいたいなと思います。


5月の説教

 5月になりました。近所を散歩していると若葉のとてもいい香りがしてきます。華やかで派手な香りではないけれど、「あ、5月なんだな」と思わせてくれる優しい空気のようなものです。5月は、カトリックの伝統で「聖母月」と言われています。聖母マリアも、華やかで派手なところは全くありませんが、人々を優しく包みこむ空気のようなものを持たれた方だと思います。その聖母マリアをこよなく愛したのが、オプス・デイの創立者聖ホセマリアです。彼の書物『道』の冒頭に次のような言葉があります。「あなたの一生が無益であってはならない。役に立つ何かを残しなさい。信仰と愛の光で全てを照らすのだ。」(『道』、1番)。この言葉を聞くと、当たり前の事実に思いが至ります。つまり、私たちが生きているこの時は二度と繰り返されることがなく、過ぎ去っていく一日一日は、唯一、オリジナルな一日であって二度と同じ日はない、ということです。それを無益に過ごしてはなりません。では、無益とはどういうことでしょうか?それは、あることが持っている本当の価値に気づかず、まるで「当たり前」のことであるかのように考えて過ごしてしまうこと、と言っても良いかと思います。
 私たちの身の回りには、どれだけたくさんの「当たり前」があることでしょうか。ご飯を食べること、学校に行くこと、学校で困難にぶつかること、悩むこと…。それら一つひとつに感謝することがもしできるのであれば、私たちは毎日たくさんの宝物に囲まれていることに気がつくでしょう。ご飯をつくる材料を提供してくれる人、そしてご飯を作って下さる人のおかげでご飯が食べられる。学校やそこで出会う人々の中で、ときには困難にぶつかりながらも、私たちは一人前になって人間としても成長していけること。そういうことに気がついた時はじめて、私たちは本当に感謝の心を持ち、ありがたいと思いながら誰かの役に立つことができるようになる気がします。そのためには新しい光で私たちの日常生活を見なければいけません。その光を「信仰と愛」と呼ぶことができるでしょう。信仰と愛で満たされていた聖母マリアを思い、5月の清々しい空気を吸い込みながら、今日もたくさん学んで発見していこう!と決心ができたら素晴らしいと思います。


4月の説教

 春になると思い出す俳句があります。それは高浜虚子の作品です。「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」。新緑の丘にひとり、春の風に吹かれて立つ少年の姿が思い浮かびます。その心には穏やかながらも熱い思いがあり、よし!春だ、いろいろな困難におそらく遭遇するだろう。でもそれに怯えることはない。自分はありったけの力と熱意をもってそれらに挑戦していこう。そんな気概に満ちている少年の姿が思い浮かぶのです。4月は新しいスタートの季節です。私たちを取り巻く環境も新しいものになりました。新しい教室、新しい先生、新しい下駄箱、新しいロッカー。それは再び襟を正して、よし、がんばるぞ!と気持ちを引き締める良いチャンスです。聖ホセマリアは言いました。「あなたの一生が無益であってはならない。役に立つ何かを残しなさい。」(『道』、1番)。意味のある一年にするために、早速今日から決心も新たに日々を充実させていきましょう。


平成28年度
3月の説教

 「あなたは塵である!」、これはドキッとすることばです。人に向かって「塵である」とは何事だ!と怒られそうですが、これはカトリック教会で行われるある式で公に宣言される言葉なのです。それは「灰の式」と呼ばれるもので、今年は3月1日に行われました。この日は「灰の水曜日」と呼ばれ、その中で「灰の式」が行われます。それはどんな式なのでしょうか?
 それは私たち人間の避けられない運命を思い出すためのものです。例外なく私たち全員が通る道は「死」というものです。私たちはみな、いつかこの地上での最後の一日を迎えます。カトリック教会はその長い伝統の中で、「メメント・モリ(memento mori)、死を思え」という言葉を使ってその現実を思い出すように励ましてきました。それは不吉なこと、不幸なことという一般的な見方のさらに向こう側に目を向けることを促す言葉です。私たち人間は限りある命を、手で触れることができるこの肉体だけではなく、目に見えない精神あるいは魂というものとともに持っています。精神あるいは魂はなくなってしまうことがありません。つまり肉体は滅びても魂は永遠に生きるといえます。カトリック教会は毎年この季節に「灰の式」を通じて、生前に行った善い行いについての報いである天国というものを思い出すように人々に促すのです。そして、「灰の水曜日」から(日曜日を除いた)40日後にイエス・キリストの受難と復活という一大イベントを記念する聖週間というものがやってきます。
 3月は節目の季節です。これまでの一年間が終わり、新しい学校生活が始まるこの季節、さらに大きな節目となる最後の一日のことに思いをはせるのは大変価値あることだと思います。限りある命だからこそ今が重要であり、私たちは毎日を充実させていかなければいけないことが実感できるからです。


2月の説教

 2月になりました。先月つまり1月(時がたつのは早いものですね!)にもっともよく人々の口に上った挨拶の言葉は「あけましておめでとうございます」でした。「あけまして」は通常「明けまして」の漢字を用いると思いますが、ある人は敢えて「空けまして」という漢字をあてていました。その心は、「空っぽのほうがよく響く。」ということでした。なるほど!と感心させられました。私たちの心の中には色々な不安や心配事があるもので、どうしてもウジウジしたり、悶々としたりしてしまうものです。いつの間にかそんなもので心がいっぱいになっていることもよくあります。それらを気前よく空っぽにすること、つまり神さまの手の内にすべて委ねてお任せすることを心がけてみましょう、ということかなと私は解釈しました。空っぽになっておめでとう!なかなかいい言葉だなあと思います。
これをきっかけに思い出したのが聖書のあるエピソードです。福音書を開くとイエスキリストが当時の人々に語った数々のお話に触れることができますが、「なるほど!」と思うこともあるし、「うーむ、どういう意味なのだろう…?」と頭をかかえてしまうこともあります。イエスさまのなさった『山上の説教』(マタイ5章)というものは、パッと読むとまったく意味が分からないものの一つです。こんな内容です。『心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。(…)私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。』 イエスさまは、心の貧しい人は幸せな人だと教えています。心が貧しいということは、心が空っぽということで、心配事や不安で心をいっぱいにしてしまわない人のことなのではないでしょうか。
マリアさまもやはり心の「空っぽ」な方だったと言えます。何事も神さまにお任せしながら、精いっぱい自分にできることをされてきたマリアさまでしたので、天使のお告げを受けた時も「私は主のはしためです。あなたの御言葉のとおりになりますように!」と言うことができたわけです。「空っぽ」のマリアさまの心に天上の音楽が美しく響いているような感じです。「空っぽ」だからこそ、バイオリンもチェロもピアノも美しい音色を奏でることができます。ぜひ、不安や心配事をわきにおいて、「空っぽ」になった心で過ごしていきたいですね。そのための秘訣は、やるべきことを、やるべきときに、しっかりと果すこと。そう、英雄的瞬間を生きることです。チャイム着席、宿題をしっかりやること、提出物を期限の来る前にきちんと出すこと、そういった小さなことをしっかりと大切にするのです。そうすると、不思議と不安や心配事が心の中にたまっていきません。軽やかな心で過ごせるものです。皆さんもぜひ試してみてください。


1月の説教

 新年あけましておめでとうございます。
 さて、先日テレビのニュースを見ていたらとても興味深い話に出会いました。それは、43歳になった今も大リーグで活躍しているイチロー選手の言葉でした。日本のある町で少年野球の大会を主催されているようですが、その閉会式で少年たちに語った言葉です。「イチローは人の2倍も3倍も頑張っているという人が結構います。」うん、確かに。それを本人はどう思っているのかな?と興味がわきますよね?そして彼は続けます。「でも、人の2倍とか3倍頑張るってこと、できないよね。」確かに!2倍も3倍も頑張るというのはなんとなく耳当たりの良いフレーズだったけれど、そんなに頑張ることはとてもできないことに思いが至ります。私には人の2倍も3倍も時間があるわけでもないし、気力があるわけでもないという現実に気が付かされます。さて、ではイチロー選手は子供たちに何を伝えるのでしょう?「頑張るとしたら、自分の限界。みんな自分の限界は知っているでしょう?その時に、もう少しだけ頑張ってみるということ。これを重ねていって下さい。」なるほど!とても具体的で、現実的で、自分にもできることだな、と思いました。もうこの辺でいいかというときにもう少しだけ頑張ってみる、ちょっと手を抜きたなというときにもう一度心を込めてみる、誰も見ていないからいいかというときに神さまのことを思い出して丁寧にやり直してみる、などなど、一日の間に何度でもチャンスはやってきます。その度に「もう少しだけ頑張ってみよう」と限界を超えていくならば、とても大きな喜びとか達成感とか心の落ち着きなどが得られると思います。それは、隠れているものを見ていて下さる神さまからのプレゼントのような気がします。
新しい一年が始まりました。日常の小さなことを少し頑張ってみる、すると自分も成長するし、周りの人を喜ばせることもできる、さらには神さまをお喜ばせすることもできる。そんなことを頭に入れてこの一年間をスタートさせましょう。


12月の説教

 12月となりました。ところで、クリスマスにはなぜクリスマス・ツリーをかざるのでしょう?その起源については様々な説がありますが、次のような物語をある時教えていただいたのでご紹介します。史実ではありませんが、面白い物語です。
 今から二千年くらい昔のことです。べツレへムの近くの丘に1本の木がはえていました。その木は、いつも静かにじっとしていました。多くの動物たちは、その木の下で楽しく遊んでいました。鳥たちも、その木に巣を作ったり枝にとまったりして、幸せでした。木も、たくさんの友達に囲まれて幸せでした。
ところが12月のある日のことです。夜空にとても明るく大きな星があらわれました。動物たちは、「あれはきっと、救い主の誕生を知らせる星だ!」と言っていました。「生まれたばかりのイエス様を拝みに行こう!」と言い、みんなでベツレヘムへ出かけて行きました。木はひとりぼっちになってしまいました。一緒にベツレヘムへ行きたかったのですが、歩くことができません。木は、明るい星を見上げながら、さびしく泣いていました。
ベツレヘムについた動物や鳥たちは、すぐに馬小屋のイエス様を見つけることができました。あの明るい星が、イエス様の場所を教えてくれたのです。馬小屋には、赤ちゃんのイエス様と、お母さんのマリア様、お父さんのヨセフ様も一緒にいました。馬小屋は、マリア様とヨセフ様のやさしい笑顔で、とてもあたたかい場所になっていました。イエス様の周りには、人々が置いていったプレゼントがたくさんありました。動物と鳥たちは、イエス様に歌を歌ってあげたり、踊ってあげたりしました。赤ちゃんのイエス様に会えてとっても幸せだったのです。
すると、マリア様が動物たちに言いました。「みなさん、今日は来てくれてありがとう。みなさんは、お友達ですか?」動物たちは答えました。「そうです。みんな仲良しの友達です。」マリア様が続けて尋ねました。「お友達は、これでみんなですか?」動物たちは、「そうです。みんな一緒に来ましたから、これでみんなですよ」。ところが、鳥が思い出して言いました。「でも、いつもわたしたちを幸せにしてくれる木がここにいません。木は歩くことができないので、一人で丘に残っています。きっと一緒に来たかったことでしょう。」マリア様は、考え込んでしまいました。そして、こう言いました。「かわいそうな木に、どうぞ、このプレゼントを持っていってあげてください。そして、木にこう言ってください。あなたは馬小屋に来ることはできなかったけれど、神様は、あなたのことをちゃんと覚えてくださっていますよ。」動物と鳥たちは、たくさんのプレゼントを持って、丘へ帰っていきました。そして、一人で泣いていた木に、たくさんの飾りをつけてあげました。すると、空から、あの明るい星も降りてきて、木のてっぺんにとまりました。こうして、毎年、クリスマスの頃になると、木は、イエス様のところへ行くことの出来ないかいわいそうな人たちも幸せになれるように、たくさんの飾りと星をつけることにしたのでした。こうして、クリスマス・ツリーは、イエス様を信じる人にも、まだ知らない人にも、すべての人が幸せに過ごせるようにという、しるしとなりました。
 この物語を聞いた私たち一人ひとりが、クリスマス・ツリーのように、人々の中で喜びと平和のしるしとなりますように、と願っています。


11月の説教

 以前こんな話を聞いたことがあります。『あるとき、働き者の靴屋さんのもとへ乞食がやってきました。靴屋さんは乞食の姿を見ると、うんざりしたように言いました。「おまえが何をしにきたか分かっとるよ。しかしね、ワシは朝から晩まで働いているのに、家族を養っていく金にも困っている身分だ。」そして、嘆くように言うのでした。「こんなワシに何かをくれ、くれと言う。そして、今までワシに何かをくれた人など、いやしない…」乞食は、その言葉を聞くと答えました。「じゃあ、私があなたに何かを差し上げましょう。お金に困っているのならお金をあげましょうか。いくらほしいのですか。言ってください」靴屋さんはおもしろいジョークだと思い、笑って答えました。「ああ、そうだね。じゃ、100万円くれるかい」「そうですか、では、100万円差し上げましょう。ただし、条件がひとつあります。100万円の代わりにあなたの足を私にください。」「何?冗談じゃない!この足がなければ、立つことも歩くこともできないじゃないか。やなこった、たった100万円で足を売れるもんか。」「わかりました。では、1,000万円あげます。だだし、条件が一つあります。1,000万円の代わりに、あなたの腕を私にください。」「1,000万円!?この右腕がなければ、仕事もできなくなるし、かわいい子どもたちの頭もなでてやれなくなる。つまらんことを言うな。1,000万円ぽっちで、この腕を売れるか!」「そうですか、じゃあ1億円あげましょう。その代わり、あなたの目をください。」「1億円!?この目がなければ、女房や子どもたちの顔も見ることができなくなる。駄目だ、駄目だ、1億円でこの目が売れるか!」すると乞食はいいました。「そうですか。あなたはさっき、何も持っていないと言っていましたけど、でも本当はお金には代えられない価値あるものをいくつも持っているんですね。しかも、それらは全部もらったものでしょう…」靴屋さんは何も答えることができず、しばらく目を閉じ、考えこみました。そして、深くうなずくと、心にあたたかな風が吹いたように感じました。気が付くと乞食の姿はありませんでした。』
 実は私たちもこの働き者の靴屋さんと似ているところがあるのではないでしょうか?たくさんのものに恵まれているのに、それに気づかず文句ばっかり言ってしまうことがあります。当たり前だと思っていることが、実は当たり前ではない、ということに気がついて感謝できればこんなに素晴らしいことはありません。11月はカトリック教会では伝統的に「死」について考えていきます。それは「命」について考えることにつながります。私たちに与えられた「命」の有難さについて、ゆっくりと考える月にしたいと思います。 


10月の説教

 昔、次のような逸話を聞いたことがあります。かつてアレキサンダー大王という偉大な王がいました。彼は地中海地方でその勢力を伸ばし、戦いに次々と勝って諸国を征服していきました。あるとき、いつものように勝利を収めた大王の一軍が帰路についていたとき、道端で哀れな乞食が物乞いをしているのに目をとめます。大王がこちらを見ているのに気がついたこの乞食は「この時しか無い!」と思い、施しを願います。馬から降りたアレキサンダー大王は乞食に近づき、今しがた征服してきた街々の名を挙げ、言いました。「ひとつ街を選べ。お前をその街の責任者にしてあげよう。」乞食は驚き、震えながら言いました。「王様、私はただわずかばかりの施しを願いました。ほんの少しのお金をいただければそれで十分なのです。」それに対して、王は答えます。「驚くことはない。お前は一人の乞食として私に願った。そして私は、一人の王としてお前に与えるのだ。」
この話を聞いたとき、私はとても強い衝撃を受けました。このようなものの見方には気づかなかったからです。乞食は、日々の食べ物にも困る乞食として施しを願いました。そして、アレキサンダー大王は、諸国を支配する偉大な王として寛大に与えました。それぞれの身分に相応しく、この二人は振る舞ったわけです。
 さて、突然話は変わるのですが、10月2日は聖ホセマリアがオプス・デイを創立した記念日です。それは1928年の出来事でした。その時以来、この地上に新しい道がけました。聖ホセマリアの祈りのカードで唱えるように、「日常生活の各瞬間と、あらゆる状況を、主を愛する機会とする」こと、つまり、毎日のごく平凡で一見つまらないことを、丁寧に心を込めて果たしていくことによって、すべての人は聖人(天国に行く人)になれるということでした。なぜなら、私たちは神さまの子どもなのだから、と聖ホセマリアは教えます。私たちは神さまの子どもである、そんな自らの身分を考えたことがあるでしょうか。すごいことです。そして、私たち一人ひとりは、この「神の子である」という身分に相応しく振る舞っていくことで、本当の幸せを味わっていくでしょう。そのためにまず、「神の子である」という自覚を深めたいと思います。


9月の説教

 今年の夏は本当に酷暑でした。クーラー無しでは知的作業(勉強・読書・仕事など)は不可能だという日が何日あったことか。空調のなかった昔の時代の人はすごいなあと感じたものです。そんな夏も一段落して、9月になってからはその酷暑もだいぶ和らいできました。
 さて、今月4日、ローマでは何十万という人が世界中から集まる大きな行事が計画されています。それは、マザーテレサの列聖式です。2003年の列福後に新たな奇跡が認定されて、死後19年を経た今年、マザーテレサは教会により聖人と認められることになりました。日本では0.5%に満たないカトリック信者ですが、マザーテレサの名前はとても多くの人に知られています。テレビでもこれまで何度も特集が組まれていますので、日本で一番有名なカトリック信者とも言えるでしょう。
 そんなマザーテレサについてちょっと調べてみようとインターネットで検索してみると、驚いた結果になりました。検索上位10件の半分以上はマザーテレサを批判する内容のサイトが占めていたのです。驚くと同時にとても残念で悲しい気持ちになりました。どんなに良いことをしても批判する人は跡を絶たないのだなあと。
 マザーテレサがこの現状をみたらどうおっしゃるだろうと考えてみました。彼女もやっぱりがっかりして肩を落とすでしょうか?
 きっとそうはしないはずです。その答えになるような彼女自身の言葉に出会いました。
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人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい
 
あなたが善を行うと、 利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
 
目的を達しようとするとき、 邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい
 
善い行いをしても、 おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
 
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい
 
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
 
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
 
あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい たとえそれが十分でなくても
気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい
 
『最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
 あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。』
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 他人がどう言おうと、「気にすることなく、あなたの最良のものを与えなさい」、そのように私たちを励ましてくれるでしょう。そんな温かなマザーテレサの言葉をじっくりと味わってみたいと思いました。


7月の説教

 一学期も終盤を迎えています。テストが終わり、あとは有終の美を飾るという大仕事が待っています。最後まで気を抜くことはできません。そして、7月は夏休みの始まる月でもあります。心待ちにしている人も多いことでしょう。長期休暇のあるこの夏の期間、私たちはいろいろなことに挑戦することができるでしょう。ダラダラ過ごすのではなくまずは決めた時間にしっかり起きること。そして確保した時間でいつもはできていなかった読書や体を鍛えるトレーニングなどに挑戦していくこともできるでしょう。40日という日数は、何か小さなことを成し遂げるにはちょうどいい期間です。例えば40日間毎日ストレッチの体操をしていけば、40日後には驚くほど体が柔軟になっているはずです。そしてそれをきっかに怪我をしにくい体になっていくでしょう。大きな変化の糸口は、小さなものです。神さまとの付き合いにおいても同じことが言えます。朝起きた時、神さまに「今日一日を与えてくださってありがとうございます。」と祈り、夜寝る前に「今日一日こんなことで上手くできました(あるいは、できませんでした)。明日はもう少し充実させたいと思います。助けをお願いします。おやすみなさい。」と祈る。短いけれども心のこもった祈りを毎日捧げることができるなら、夏が終わる頃には大きな変化にきっと自分自身が驚くはずです。そんな成長を実感する夏にしていきたいと思います。


6月の説教

 気がついた人がいるかもしれませんが、ここ数日間お御堂の祭壇の上には、普段はあまり見慣れない美しい切り花が飾ってあります。これにはどんな意味があるのでしょうか?それを解き明かすカギは、5月の最後の日曜日にカトリック教会で祝われたご聖体の祝日にあります。約2000年前のとある木曜日イエスキリストは12人の弟子たちと共に夕食の席についていました。それは彼がこの地上でとった最後の夕食でした。3年ばかりの間12人の弟子たちと寝食を共にし、旅の苦労や出会う人々との喜びや悲しみを一緒に経験してきました。そんな日々も終わりを告げます。翌日にはイエスキリストは十字架につけられて亡くなるのです。その時の夕食は最後の晩餐と呼ばれています。その席でイエスキリストはパンを手に取り祝福して言いました。「これはあなた方のための私の体である。」これが、ご聖体と言われるものの起源です。私たちが目の前にしているものはもはやパンではなくキリストの体である。この事実はイエスキリストの時代であってもにわかには信じられないことでした。多くの人々は「もっとまともなことを言ってくれ!」と嘆いたものです。でも、イエスキリストは決してまやかしを言う方ではないと知っている人々もいました。ご聖体を祝う、それは「キリストの言ったことに賭ける」人々の、とても美しく力強い信仰のあらわれであると思います。


5月の説教

5月になりました。三川の自然の中を歩いていると「5月の香り」がしています。それが何の香りなのかは分かりませんが、何か特定の花の香りではないようです。もっと柔らかで控えめな感じです。三川には竹林がたくさんあるので、若いタケノコの匂いなのかな?と思っています。さて、5月は植物も昆虫も、そして人間も新しい環境でグーンと成長していく時期です。生命が躍動すると言えるこの季節、わたしの頭に思い浮かんでくるひとつの言葉があります。それは、聖ホセマリアが著書『道』の中で語っているもので、次のような一文になります。『あなたの一生が無益であってはならない。役に立つ何かを残しなさい。』そう、私たちが生きているこの時間は二度と繰り返されません。だから、日々を大切にしながら充実させていきたいものです。私たちに与えられた時間や才能を無駄にせず、将来人々や社会に貢献できるように精一杯活用していきたい、そんな決心を新たにする5月にしたいと思います。


4月の説教

春は喜びの季節です。それは学校の周辺にある自然を見ていても感じられます。3月の下旬にはマリア様の像のあるブランコ広場のソメイヨシノが満開になりました。今はグラウンド下の八重桜がはちきれんばかりに咲き誇っています。小学校校舎に行く途中の藤棚には香り高い藤の花とともに、ハチがブンブンと飛び回っています。生命の躍動する季節が春だなあと実感します。ところで、カトリック教会でも春は大きな喜びの季節で、「アレルヤの祈り」というこの時期限定の祈りを唱えています。アレルヤとは、「主をほめ讃えよ」を意味するヘブライ語(イスラエルの民の言葉)から来ています。この時期、カトリック教会ではなぜそこまで「アレルヤ!」と言って喜びを表現するのでしょうか?それは、いまから約2,000年前の出来事に遡らなければなりません。地中海の東の沿岸付近にあるエルサレムという町で起きた出来事です。それは十字架の上で非業の死を遂げたかに思われたイエス・キリストが死者のうちから復活したという出来事です。「そんなばかなことがあるものか」と言って聞く耳を持たない人もたくさんいましたが、その教えは着実に広がり、長い年月を経てこの精道学園にもその教えが届いています。カトリック教会の希望や喜びの源は、死者のうちから復活したイエス・キリストなのです。
 この春、みなさんは特別な思いを胸にしてこの学園での学校生活をスタートさせたことでしょう。どうかこの一年がみなさんにとって、希望と喜びに満ちた、実り多いものとなるように祈りたいと思います。


平成27年度
3月の説教

 3月は年度末、締めくくりのときです。よい形で終わり、次へのスタートを準備するときと言っても良いでしょう。そのとき必要になることがあります。それは気持ちを前に向けること。もっと具体的に言えば、感謝の心を持つことではないかと思います。
 聖ホセマリアの著書『道』に次のような言葉があります。「毎日、幾度も心を神に上げて感謝するくせをつけよう。神があれやこれやをくださるから、軽蔑されたから、必要なものにも事欠くから、あるいは必要なものはちゃんとあるから。」(『道』268より)。良いことに感謝するのは理解できます。しかし、軽蔑されたら悲しくなり、必要なものがなければ困ります。一見して良いとは思えないことにもなぜ感謝することができるのでしょうか。そんな疑問がわいてきますが、答えのヒントになるような詩に出会いました。「まばたきの詩人」と呼ばれる水野源三氏の詩を読んだのです。水野さんは9歳の時に赤痢にかかり、脳膜炎を併発してその後遺症のために手足の自由を奪われ、ついには話すこともできなくなります。しかしある時友人から聖書を読み聞かされ次第に周りの人がびっくりするほど明るくなります。やがて水野さんは詩や短歌を作り始めました。お母様が五十音表を示し、水野さんがまばたきで合図して音を一つ一つ拾い、書き表していくのです。そんな水野さんが作った詩が「有難う」です。有難う/物が言えない私は/有難うのかわりにほほえむ/朝から何回もほほえむ/苦しいときも 悲しいときも/心から ほほえむ。おそらく水野さんは、声に出して感謝を伝えたかったでしょう。お母さんがご飯を作ってくれた時、ご飯を食べさせてくれた時、汚れた服を替えてくれた時、などなど。朝から晩まで「有難う」と言いたいことはたくさんあったでしょう。そうして彼は一所懸命微笑んでいました。
 軽蔑された時、私にはもっと謙遜になる機会が与えられました。必要なものに事欠くとき、当たり前だと思っていたものが当たり前でないことに気づく機会が与えられました。それらを一つ一つ、心静かに神さまの前で思い出すとき(つまり祈るとき)、私たちは一日の間に何度も感謝すべきことに出会っていることに気がつくものです。 


2月の説教

 前回は、2016年の元旦に出された教皇フランシスコの「平和へのメッセージ」を紹介しました。そのメッセージの力強さ、つまり、困難を前にしても決して諦めたり愚痴をこぼしたりすることなく、常に希望を持って将来への展望を示される教皇様のパワーに驚かされました。さて、今日はそんな教皇フランシスコの別のメッセージを皆さんに紹介したいと思います。
 昨年の3月13日、選出から2年を迎えた教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われた四旬節(注:イエスの十字架での苦しみを黙想する40日間)の回心式において、2015年12月8日から2016年11月20日までを「いつくしみの特別聖年」とすることを宣言し、4月には大勅書も発表されました。(インターネットで「いつくしみの特別聖年」「大勅書」「ダウンロード」と検索すれば入手できます。)この文書は次の言葉で始まります。「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。」困難や苦しみを前にして、肩を落として歩くことは私たちには相応しくない、なぜなら十字架で亡くなって3日後に復活されたイエスさまが神さまのいつくしみや苦しみの持つ意味を教えてくださったのだから。イエスさまのことをもっと黙想しましょう。それが教皇様のメッセージの核心ではないかと思います。「ナザレのイエスは、その言葉と行い、そして全人格を通して神のいつくしみを明らかになさいます」(上記文書より引用)、このように仰って教皇様は私たちの目をイエス・キリストへと導くのです。そして私たち一人ひとりが神のいつくしみを味わうようにと勧められます。ではどうやってそれを味わうことができるのでしょうか?いろいろな方法があるかとは思いますが、ひとつは、まず私たちがゆるし、ゆるされることを体験することによってではないかと思います。私たちが誰かのことをゆるすことができるのであれば、トゲトゲしたものがなくなり、そこに暖かさが生まれるでしょう。その暖かさは、別の誰かの頑なな心を溶かしていくことができると思います。そうやって少しずつ私たちの身の回りで、ゆるし、ゆるされることが体験されれば、そこにいつくしみが溢れてくるのではないでしょうか。大げさなことではなく、小さな身近なところで誰かをゆるす、そうすることによって私たちはイエス・キリストと日常生活の中で出会っていくように思います。


1月の説教

 皆さん、あけましておめでとうございます。さて、今日は新年にあたって、皆さんにぜひ紹介したいと思った記事についてお話をします。それは、カトリック教会のフランシスコ教皇様が今年の元旦に出されたメッセージで、その中で教皇様は世界の平和について語りました。2015年の世界情勢を振り返った時、残念で悲しい出来事がたくさんあったということは誰の目にも明らかです。教皇様もハッキリとそれを認識しておられます。でも教皇様は力強く言います、「人間には、神の恵みのもとに、悪に打ち勝ち、あきらめと無関心に陥らない力があります。人間は危機的な状況に直面しても、個人の利害を超え、無感動、無関心を克服して連帯する力を持っているのです」と。確かに、難しい状況を前にした時、私たちには2つの異なった態度をとることができます。ガックリと肩を落として悲観してしまうのか、あるいは、奮起して立ち上がるのか。教皇様は後者を取ります。でも、なぜがっかりせずに困難に打ち克つことができると言えるのでしょうか?それは根拠の無い虚しい言葉なのでしょうか?そうではなく、現実に即してそう言えるということなのです。例えば、今年の9月に列聖されることになったマザー・テレサのことを考えれば分かります。たった一人で始めたインドでの慈善の行いが、いつしか世界中の人々にも知れ渡り、1979年にはノーベル平和賞を受賞するまでに至りました。彼女は世界を変えたと言っても過言ではありません。そして、マザー・テレサは非常に例外的な聖人なのかというと、そうではないと思います。実際に、個人の利害を超えて人道的な働きをしている人々やNGO団体がたくさんあります。光を探そうとするのであれば光に出会うことができるのです。では、平和の実現を邪魔していのは何でしょうか?それは、「侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度」であると教皇様は指摘しています。これは驚くほど私たちの生活の身近なところにあることです。凶悪なテロリストは隣にはいないかもしれませんが、無関心や惰性、あるいは白けた態度などは、もうすでに私たちの心のなかに入り込んでいるかも知れません。そして、このような態度は世界の平和に対する最も厄介な敵になる、と教皇様は私たちに語りかけています。世界の平和というと、何だか自分には手の届かない理想について語っていると思われがちです。でも、そうではない、私たちの心のなかにすでにその解決のためのいとぐちがある、と教皇様は言われているのです。その通りだな、と私は納得したのですが、皆さんはいかがでしょうか?今年一年、少なくとも私の心の中から「無関心・惰性・白けた態度」を追い出すように努めよう。新年を迎え、そう決心しました。


12月の説教

 12月になりました。街を歩くと、クリスマスのイルミネーションが美しく輝いています。大きな商業施設に行けばクリスマスソングがBGMとして流れ、いたるところにサンタクロースが立っています。華やかな雰囲気は心を浮き立たせますし、12月25日の夜を待ち遠しく思っている人もたくさんいることでしょう。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみたいのは本当のクリスマスについてです。英語で正しく表記すると「Christmas」となります。それは、キリストのミサという言葉です。ミサはキリストが行ったこと、特に十字架上で行ったことを記念し再現することで、教会で行われるミサの中で人々は神さまを礼拝し感謝の祈りを捧げるのです。ですから、「Chirstmas」はキリストへの礼拝と感謝、という意味に捉えることができるでしょう。そのようなわけで、本来のクリスマスはキリストの誕生、神のひとり子キリストの誕生を思い起こす日であることがわかります。主役はサンタクロースではなく、小さな赤ちゃんとしてお生まれになったイエス・キリスト、そしてその母親であるマリアさまであると言うことができるわけです。日本ではまだまだですが、キリスト教がしっかりと文化に根ざしている国々では、イエス・キリストが誕生した馬小屋を再現したものを教会や各家庭のリビングなどに飾ります。ローマにあるバチカンの聖ペトロ大広場では実物大以上の大きな馬小屋が建てられ、そこを訪れる多くの人が約2000年前のベツレヘムでお生まれになった幼子イエスに思いを馳せるのです。
その他にも面白い事実があります。クリスマスツリーのてっぺんには大きな星を飾りますが、あれは、イエスの誕生の時に天上に輝いた星を表しており、ツリーに使われるモミの木は常緑樹で冬でも葉を落とさないことから永遠の命の象徴、つまりイエス・キリスト自身の象徴となっているそうです。ツリーの飾りとして使われるりんごの実はアダムとイブが食べてしまった禁断の樹の実を表し、とげを持った緑の葉のヒイラギは十字架につけられる前にイエス・キリストが頭につけられたいばらの冠を象徴しているとのことです。ちなみに、サンタクロースの元となっているのは4世紀の実在の人物である聖ニコラス(英語ではSaint Nicholas、セントニコラスが変化してサンタクロースとなった)と言われています。
 プレゼント交換をしてケーキを食べてお祝いをするのも素晴らしいのですが、こうして本来の意味であるキリストの誕生に思いを馳せるとき、クリスマスはより美しい輝きを放つのではないでしょうか。


11月の説教

 数年前、私はイタリアのローマで司祭になるための勉強をするために留学をしていました。毎朝大学に通っていましたので、ローマ市内をよく歩いたものです。石畳の町並み、長い歴史を持った教会や遺跡がここかしこにある魅力的な町でした。そんなある日、いつものように大学の授業が終わり家路に向かっているとき、目を丸くするような光景に出会いました。それは、100台に迫ろうかというランボルギーニ社製の真新しいスーパーカーの集団でした。かの有名なバチカンの聖ペトロ大聖堂の前に伸びる大通りを、一台数千万円はする超高級スポーツカーの数々が占拠していました。ある車はアクセルを空ぶかししながら爆音をあげています。「うわっ、すごい!」と興味津々でその光景を見ていました。周囲には当然、人だかりができています。その視線の先には、誇らしげに車の傍らに立つオーナーたちがいます。そんな人々の視線をあまり意に介さないかのように振舞いながら、ギンギラギンというに相応しい服装のオーナーたちは談笑していました。そんな光景を少し見ている内に、何だか興が冷めてきました。そしてそっとその場を後にしました。
 『真理はあなたたちを自由にする』という言葉が聖書にはあります(ヨハネの福音書8章32節)。私にはその言葉が非常に強く心に残っています。誰しも、自由になりたいものです。そのためには、自分の思うままにできる時間やお金がどうしても不可欠だと考える人がいるかもしれません。しかし、それらを持っている人がほんとうに自由なのでしょうか?もしそうなら、忙しくて時間のない、そして経済的にも余裕のない多くの人は自由になれないのでしょうか?あのローマでの光景を思い出すにつけ、そんなことを考えてしまいます。そして、「いや、決してそうではない。人であるかぎり、自由になる道が皆に等しく開かれているはずだ。」と思わざるをえないのです。そして、その自由になる道というものは、『真理』に触れることなのではないかと。
 カトリック教会では、11月には特に亡くなった人を思い出し、彼らのために祈ることを奨励しています。皆がこの世を去っていくということは、避けようのない『真理』です。そして、カトリック教会はこの世の後には永遠の生命があることを教えています。別れという悲しみの向こうに、永遠の喜びという光が亡くなった人々を包んでいるわけです。こうして、死という鎖から解き放たれ、ほんとうの自由を得られるのではないかと感じています。『真理』を探求することで、私たちは日ごとに自由になっていくのではないでしょうか。


10月の説教

「人生、山あり、谷あり」。私たちは皆、この言葉をどこかで一度は聞いたことがあると思います。良い時もあれば悪い時もある。けれど、それらをすべてひっくるめて豊かな人生が開けてくるよ、というニュアンスで使われるかと思います。それを改めてハッキリと思い出させてくれるような、すごい話を耳にする機会がありました。
 1962年、アメリカ、マサチューセッツ州で一人の赤ちゃんが生まれました。名前はリック・ホイト君。でも、生まれる時にへその緒が首に巻き付いており、脳性麻痺、痙性四肢麻痺という重大な障害が残ってしまいました。手も足も動かせない状態でした。生後9ヶ月の検診のとき、「一生、寝たきり、植物状態のようになるでしょう。施設に入れなさい。」、そう医師から宣告されます。しかし両親は、「自分たちが諦めてしまったら、この子に明日はない」と自分たちで育てる決心をします。そして、愛情深く育てているうちに、この子にも意思があり、気持ちを伝えることができると発見します。そんなリック君が15歳の時、彼らの住む街で、あるチャリティーランが催されました。事故で身体が麻痺してしまったラクロス選手のための8kmのレースでした。それを知ったリック君が言いました、「お父さん、僕もチャリティーランに参加したい!」。お父さんは、まさか!と思いました。運動なんて全くしてこなかった自分、太っていたし、1kmであっても走ることはできそうにありませんでした。「どうやってこんな自分が、車いすの息子を押して8kmもの距離を走れるだろうか…。」父親は悩みます。でも、ケガで苦しむ誰かのために自分も何かをしたいという息子の強い気持ちを知り、決意します。翌日からトレーニングを開始。その日までスポーツなどしたことのない38歳の男が、アスリートのように肉体を鍛え始めます。そして、大会当日、彼は総重量65kgにもなる車いすを押してひた走り、完走します。無事にゴールした時、息子は、「まるでひまわりのような笑顔」(このように後日お父さんが表現しました)で言ったのです、『父さん、一緒に走っている間、僕、自分が障害者じゃなくなったような気分になったよ!』。それ以来、彼の人生は変わります。1kmも走れず、ほとんど泳げず、6歳の時から自転車にも乗っていない中年の男が、ただ息子の笑顔のために、トライアスロンにも挑戦するのです。ゴムボートに乗せた息子を引っ張ってスイム4km、自転車のハンドルバーに設けた特別の椅子に息子を乗せてバイク180km、そして車いすの息子を押してラン42.195kmを走り切るのです。16時間14分の親子のレースでした。見事にそれを成し遂げたのです。ゴールには家族全員が駆け寄り、皆で涙を流し、抱き合いました。

 困難を前に、私たちには2つの態度を取ることができるでしょう。諦めてしまうか、あるいは、立ち向かうか。愛が心の中にあるのなら、私たちは後者を選ぶことができるでしょう。愛とは、他者への優しい気持ち。もちろん、神さまに愛を向けることもできます。それを私たちは、日常の小さな行いを通して表していくことができるのです。「人生は、山あり、谷あり」。愛に動かされた時、私たちは前進し、困難を乗り切って成長していくでしょう。
 ちなみに、このリック君にあるとき、インタビュアーが聞きました。「君の夢は何ですか?」彼は答えました、「一度、父を車いすに乗せて押してあげたい。」と。
(本文は、中井俊已氏『心の糧・きっとよくなる!いい言葉』を参考にしました。http://archives.mag2.com/0000141254/20151009070000000.html )


9月の説教

 2学期が始まりました。こうして皆がお御堂に集まって、御聖櫃の内にいらっしゃるイエス様の前で、「この2学期を充実したものにしよう!」と各自が心のなかで決意を新たにするのであれば、それは神さまが本当にお喜びになることでしょう。
 新年度が始まった4月から数えて、すでに5ヶ月が経ちました。学校生活の中、そしてクラブ活動の中で、自分の立場というものにもだいぶ馴染んできたことでしょう。新たな環境に馴染んでいくには大変なエネルギーが必要なものです。それをクリアーした皆さんは今、飛躍の時に差し掛かったと言ってもいいでしょう。全てのエネルギーを更なる成長のために注ぎ込む時期です。
 ところで、以前どこかで読んだことですが、世界で活躍するイチロー選手がある時のインタビューで次のように答えていました。所属するチームの地元にある小学校に招かれて講演をした時のことです。「大リーグで活躍するには、何が一番大切ですか?」このような問いに、多くの人は、イチロー選手独自のトレーニング方法や健康管理などについて話が聞けるのではないか、と期待を抱いたことでしょう。そして、それを見事に裏切ったのが彼の答えでした。---「バットを地面に置かないこと。」---。「え?」と思ったとしても不思議はありません。全く予想していていなかった答えですから。彼は唖然とする人々を前に続けました。「芝生の水をバットが吸うと、何億分の一かの変化があって、バッティングが変わってしまう。そして、それ以上に、お父さん、お母さんが買ってくれた道具を大切にして、バット、グローブを磨くことです。」
 さすが。脱帽するしかありません。自分を支えてくれる多くの人に感謝しながら、小さなことを大切にすることの重要性を教えてくれます。小さなことを大切にする、これを実践したのは、実はイエス様も同じです。彼は33年間の生涯をこの地上で過ごしました。そのうちの30年間はナザレトの小さな村の大工として生活したのでした。目立たない、誰からも注目をされることのない、一見するとつまらないことの連続する毎日でした。その準備期間をもとにして、最後の3年間の宣教生活がありました。
 私たちの身の回りにあること、それはどちらかと言うと大きなことではなく小さなことの連続でしょう。毎日の宿題、係の仕事、体育祭の応援の練習、授業の開始時刻に遅れないこと、提出物を期限までに出すこと、等など。それらの一つひとつは、大きなものではないでしょう。しかし、それらを責任感をもってきちんと果たしていくこと、そうすることによって大きな飛躍というものが訪れるのではないでしょうか?9月のモットーは責任感ですね。任された小さなことの偉大な価値を知る機会になるようにと祈っています。


7月の説教

 今月のモットーは友情です。友達の大切さ、友情のありがたさは、我々みんながよく知っていることでしょう。でも、さらに一歩踏み込んで「本当の友情とはなんだろう?」と考えてみたいと思います。
 休み時間に一緒にいることや、同じ趣味を持っていたり、同じクラブに所属していることによって友達になっていくのは事実でしょう。でも、「休み時間にいつも一緒にいるから」、「同じ趣味を持っているから」、「同じクラブに入っているから」友人であり、友情を持っているとはならないものです。それはあくまで一つのきっかけであり、それが友情であるかどうかは別の問題であるというわけです。本当の友情は何かの状況に置かれたところに自然発生するようなものではなく、当人同士が育んでいくものです。聖書の中で、イエス様は次のように言いました。『友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない』(ヨハネ15章13節)。命、即ち自分にとって大切なものをある人のために差し出すことによって愛(ここでは友情)が育っていく、という意味に理解することができると思います。自分にとって大切なもの、それはたとえば、「時間」であり、「心」すなわち「心遣い」や「思いやり」などではないでしょうか。命を差し出すような場面はおそらくやってこないでしょう。しかし、誰かのために少し時間を割いて手伝ったり、一緒に仕事をしたりすることは一日の中でも頻繁にあるでしょう。そこに少しの「心遣い」や「思いやり」を加える事によって、我々の周りに友情というものがグングンと成長していくのではないかと思います。我々の過ごす日常の小さな出来事の中に、実はとても価値あるものが隠れていることに気づいて、それを大切にしていくこと、そんなことを頑張れたら素晴らしいと思います。


6月の説教

 5月は聖母マリアの月と紹介しました。では、6月は何の月、ということができるでしょうか?それは聖ホセマリアの月、ということになるかと思います。1975年6月26日、夏の気配が色濃く感じられるようになった暑い日でした。外出先で気分が悪くなりローマの自宅に戻ってきた直後に気を失われました。緊急のさまざまな手当にもかかわらず、意識が戻ることはありませんでした。ホセマリア・エスクリバー神父様の帰天は多くの人の心に深い悲しみを引き起こしました。世界中のたくさんの人々に多くの励ましと助言、助けを与えていたからでしょう。
 あまり意識していないかもしれませんが、実は私たちも聖ホセマリアのお蔭でここにこうして集まることができています。それはどういうことでしょうか?ここにいる我々は一人として彼に個人的に会ったこともなければ、直接声をかけてもらったこともありません。「お世話になったことはありません」ということができるかもしれません。でも同時に、次のことも事実なのです。もし彼がいなければ、この学校は存在しませんでした。つまり、ここにこうして集まっている私たちも一緒になることは決してありませんでした。学校に御聖堂があり、そこで祈りがあり、ミサがあり、宗教の授業があり、学校内に司祭が歩いているというちょっと変わった学校ですが、これは聖ホセマリアの精神を受け継いだ精道三川台ならではのことです。「すべての人が、日常生活において、専門の仕事を通して聖人になることができる」、これが聖ホセマリアの教えでした。それを、自らの生涯を通して、各瞬間ごとに実行したのが聖ホセマリアの一生でした。その教えを受け継ぎ、我々もそのような生き方をたとえ一部分であっても真似をしていこう、学んでいこう、というのが今ここに集まっている私たちの使命ではないかな、と思います。
 聖ホセマリアの人生は必ずしも安易なものではありませんでした。というより、いつもたくさんの難しい状況や出来事に取り囲まれていたと言ったほうが正確かもしれません。でも、彼は決して落胆することはありませんでした。諦めてしまうこともありませんでした。それは、日々の小さなことの中に、偉大なことが隠れているのを知っていたからでしょう。日々の小さなことを愛をこめて果たしていくこと。それが聖ホセマリアの生き方を私たちのものにしていく一歩目となるように思います。目の前に迫った期末テストの勉強を、いろいろな願いを込めつつ、あの人のためこの人のためと心に念じつつ果たすなら、それは愛をこめて果たしたことになるでしょう。


5月の説教

 5月は何の月と呼ばれているか知っていますか?5月の第2日曜日には母の日がありますね。カトリック教会では、マリア様に捧げられた月である、と伝統的に言われています。では、マリア様とはどんな方でしょう?イエス・キリストの母、つまり神様の母親です。これをギリシア語(新約聖書が書かれた言葉)では「テオトコス」と言います。そして教会の伝統では、聖母マリアは全てのキリスト信者の母、さらには全ての人の母であると言われています。そのように言われる理由は宗教の授業でゆっくり見ていくとして、今日は「母親」ということについて考えてみたいと思います。
 先日、こんな詩を読みました。作者は山田康文くんという15歳の少年です。
  ごめんなさいね おかあさん
  ごめんなさいね おかあさん 
  ぼくが生まれて ごめんなさい
  ぼくを背負う かあさんの
  細いうなじに ぼくは言う
  ぼくさえ 生まれてなかったら
  かあさんの しらがもなかったろうね
  大きくなった このぼくを
  背負って歩く 悲しさも
  「かたわの子だね」とふりかえる
  つめたい視線に 泣くことも
  ぼくさえ 生まれなかったら
1行目からびっくりする言葉ではじまります。この詩を作った山田康文くんは生まれつき全身が不自由で書くことも話すこともできない少年だそうです。ではどうやってこの詩は書かれたのでしょう?それは養護学校の先生が康文くんを抱きしめ、投げかける言葉に対して康文くんの言いたい言葉の場合は康文くんがウィンクでイエス、ノーの時は舌を出すという作業を繰り返して出来上がりました。出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけでも1ヶ月もかかったそうです。この詩を受けて、母親の信子さんも彼のために詩を作りました。
  わたしの息子よ ゆるしてね
  このかあさんを ゆるしておくれ
  お前が脳性マヒと知ったとき
  ああごめんなさいと 泣きました
  いっぱい いっぱい 泣きました
  いつまでたっても 歩けない
  お前を背負って 歩くとき
  肩にくいこむ重さより
  「歩きたかろうね」と 母心
  “重くはない”と聞いている
  あなたの心が せつなくて
  わたしの息子よ ありがとう
  ありがとう 息子よ
  あなたのすがたを 見守って
  お母さんは 生きていく
  悲しいまでの がんばりと
  人をいたわる ほほえみの
  その笑顔で 生きている
  脳性マヒの わが息子
  そこに あなたがいるかぎり
なんと美しい言葉のキャッチボールだろう、と心を動かされました。心と心を結ぶ美しい言葉のキャッチボールです。母親への深い思い、子への限りない愛情、こうして母と子の絆はさらに深まっていくでしょう。
 5月は聖母マリアの月。まずは身近な私たちの母親に、「ありがとう」「ごめんね」「おはよう」そんな小さな言葉を大切にしていきながら過ごしていきましょう。それを天の母、マリア様もきっと喜んで見てくださることでしょう。
(本文は中井俊已氏のブログ『心の糧・きっとよくなる!いい言葉』http://archive.mag2.com/0000141254/index.htmlを参考とさせていただきました。)


4月の説教

 新年度が始まって一ヶ月が経ちました。皆さんも新しい環境に少しずつ慣れてきている頃かなと思います。春という季節は、いつも気持ちが新たにされるいい季節です。さて、先日とてもいい光景を目にしました。放課後、おそらく新入生と思われる生徒がクラブに初めて参加しようとしていた場面だったかと思います。遠目にも、「まだどうしていいのかわからないんだろうなあ。」ということが見て取れました。すると、上級生と思われる人がおもむろに彼に駆け寄り、そして「こっちだよ、荷物はこうするのだよ。」と教えてあげている様子でした。だいぶ離れて見ていたので会話まではわかりません。でも、暖かく迎え入れている様子はハッキリ伝わってきました。クラブに参加している生徒には、運動部ならその競技、文化部なら活動の対象に対する情熱(パッション)があります。そして、その情熱を共有する仲間が新しく加わった時、私たちはその仲間を暖かく迎え入れたいと思うものです。ちょっと拡大して考えてみると、この春に新しい生活、新しい学年を始めた我々は皆、何かを達成しようと情熱を傾けて頑張っている仲間だと言えます。そして、それを一番喜ばしく迎えてくれているのは、天におられる神さまかな、と思います。
 神さまに暖かく見守られながら、この新しい生活を始めたいと思います。


令和元年度
 人生何を残すか

選手としても監督としても一流だった野村元監督が亡くなりました。84歳、偉大な記録と共に人々の記憶に残る人生でした。彼は人生について興味深い言葉を残しています。「財産を残す人生は下、仕事を残すは中、人を残すは上」。多くの日本人が冨を目指して努力していますが、そんな人生は成功しても下である。立派な仕事をして後世に残す方が良い。例えば、法隆寺などは千年の時を越えて人々を魅了し続けています。さらに優れているのは自分の夢を引き継ぐ人を育てることである。野村監督は「ID野球」を掲げ、その遺志を継ぐ選手が大勢います。彼らが受け継いだものを更に進化させています。そこに野村監督が生き続けているのです。「人を残した」見事な人生でした。
 
イエス・キリストも同じです。「人々の救い」という大きな計画を自分一人でするのではなく、後継者を育て、十二使徒を残しました。彼らがイエスの始めた救いの業を引き継いで、それが今まで続いています。これからも続きます。偉大な事業は一代で完成しません。初代の創立者が抱いた夢や理想に共感して、それを引き継ぐ人が現れます。「人を残す」とは、そんな人生を指した言葉でしょう。社会に貢献する何かをしたいと、本気になって取り組むなら、必ず賛同する人が現れます。中途半端や人任せではいけません。自分がリスクを背負って背水の陣で本気になって取り組むのです。自分のためだけに働き、生きている人に誰もついて来ないし、共感も賛同もしてくれません。
 
高校を卒業するみなさんは、いよいよ自分の人生を歩み始めます。その第一歩を踏み出すに当たり、最後の言葉を送りたいと思います。『天の国に宝を積め』、イエスの教えです。「この世」に富を蓄えても、死んだら無一物で何も持っていけません。死んだ時に私たちが手にしているのは、所有していたものではなく、人々「与えた」ものです。それが唯一自分に残るものなのです。自分の時間を与える。自分の愛情を与える。自分の大切なものを与える。誰かのために自分を与えるのです。こうして「天国に宝を積む」のです。
 
人生は一人旅ではなく「道連れ」です。誰かと共に歩むものです。共有し、共感して、共に喜び、一緒に悲しんで、笑って生きるものです。仕事、家庭、社会、そこに人生があります。そこに自分を与える場所があります。そこで人々の心に「何かを残す人生」を歩んでください。
2020/02/14 高校三年生、最後の朝の説教より(小寺神父)


一期一会

倒産寸前だった日産の業績を短期間でV字回復させ、日本で一躍有名にカルロス・ゴーン氏。凄腕経営者として高く評価され、人々の憧れの的になりました。その姿は輝いて見えました。ところが、不正蓄財で会社から訴えられ、法をくぐって密出国して、再び注目の的になりました。社員とはかけ離れた高額報酬を受け取りながら、影で更なる不正と思われる報酬を受けていることが発覚して、憧れは興醒めへ、さらに幻滅や軽蔑へと変わりました。あの輝いていた姿は偽物でした。優れた才能は会社からお金を絞り取るために使われていました。社員や会社を自分のために利用したと言われても仕方ないでしょう。偶像が地に堕ちた瞬間でした。
 
偶像は遠くから見ると輝いて見えます。しかし、近づいて見ると冷たくて非情、自分のことしか考えていません。「偶像」は偽物の神ですから、その反対は「真実の神」です。それを真実の人生、真心の人と言ってもいいでしょう。それは遠くから見えません。ところが近づくと周囲の人々を暖かく照らし出し、幸せにしているのです。日本の古い禅宗の絵に「二つの食卓ローソク」があります。一本は高くて遠くから輝いて見えるけれど、高すぎて食卓は薄暗くて料理もよく見えません。無口で暗い顔をして食べています。もう一つは、低くて近づかないと見えません。しかし食卓は明るく照らし出され、誰もが楽しく食事しています。
 
あなたは、どちらの人生を選びますか。若い頃は高く輝く光に憧れ、それを目指すかもしれません。輝く光自体は素晴らしいことです。でも、もっと大切なことはその光で何を照らし、誰を幸せにするかです。自分を照らし、自分を満足させるだけなら「偶像の人生」でしょう。自分しか見ていないのです。人を見ていないのです。現代社会は消費主義と個人主義は幅を利かせ、個人的に経済的な成功を収めることに価値を置いています。つまり、自分を照らそうとしているのです。それに嫌気がさした若者は、大人にならない、社会に出ないという姿で反抗しています。気持は分かりますが、それは人を照らさないことです。結局、個人主義に陥っています。
 
人生を決定づけるのは人との出会いです。こんな人になりたい、この人に付いて行きたい、この人と一緒に働きたい、この人と人生を共にしたい、そんな出会いです。出会いは、真剣に人と向き合うことから始まります。それが一期一会です。よい本、よい人と出会ってください。日ごろの生き方がそれを左右します。まず、今日一日を精一杯生きよう■
2020/01/24高三、朝の説教より(小寺神父)


手を抜かない生き方

本校の卒業生でテニス部の大先輩に、堀晃大(36歳)がいます。現NTT西日本ソフトテニス部監督です。今年、日本リーグで優勝して前人未到の10連覇を成し遂げました。彼は一つの言葉を心に刻んで練習に励み、指導に当たっています。それは中学時代にテニス部監督から言われた「自分が持っている力を、今日、惜しまずに出し切れ」という教えです。人間の心の中には、よい望みと悪い傾きが共存しています。努力して向上したいという望みと、怠けたい、楽をしたい、誤魔化したい、嫌なことを先送りしたいという誘惑です。自分の中に「よい自分」と「悪い自分」がいて、対立しています。この戦いに負けると堕落します。勝てば成長します。心の中の勝負に人生が懸っているのです。あらゆる瞬間が戦う機会です。「すべきことを今する」のか、後回しにするのか。義務的にいやいや果たすのか、意欲的に果たすのか。各瞬間、その人の生き方が試されています。寒くても決めた時間通りに起きる。時間通りに仕事や練習を始める。だらだら続けずサッと終わって次の活動に移る。このように、怠惰やわがままに負けない強い心をつくり上げる必要があるのです。
 
また、人生には逆境もあります。先日、バトミントン世界一位の桃田選手が交通事故に遭いました。周囲から金メダルが期待され、寸暇を惜しんで練習したい時期です。でも、出来ません。そんな時、落ち込んだり諦めたりせず、出来ることを全力ですることです。それは健康を回復することかもしれません。彼は不祥事で試合に出場できない期間、有り余る時間をすべて練習に励み、今の自分をつくり上げました。また競泳の池江璃香子選手は、白血病が見つかり東京オリンピックを断念しました。しかし、たとえ練習ができなくても、日々持てる力を出し切って戦っています。それは闘病とリハビリです。何があろうとも日々、全力を尽くすこと。けっして手を抜かないこと、それは神の望みに応える生き方でもあります。「今日、この瞬間、力を出し切ろう。明日は来ないかもしれない」。■(指導司祭:小寺左千夫)
 
2020/01/17 精道三川台高等学校12年生、朝の説教より


 初心になる

「初心、忘るべからず」これは、世阿弥が『風姿花伝』の中で能の心得として書き残した言葉です。たとえベテランになっても、けっして馴れっこにならないようにという戒めであり、また習熟した事柄に対しても「初めて」向き合うかのように心掛けよ、という教えです。ベテランの人も最初は初心者でした。自分の持っている知識、経験、才能、感性、あらゆる力を総動員して、新しい道と向き合ったのです。そして、未知の世界に立ち向かっていくチャレンジ精神があったからこそ、道を切り開くことができたのです。だから、人生の壁にぶつかった時、初心に帰れと言われたりします。でも、みなさんはこれからです!

みなさんは人生の節目を迎え、新しい世界に飛び立とうとしています。これまでは親の保護の下に成長してきましたが、これからは自分で道を切り開いていくことになります。もちろん親や先生が手伝ってくれるでしょうが、自分が主役です。責任も増えます。これまで学んできたことを総動員して、自分で考え、自分で決心して、自分で責任をとって行動します。自分の人生を自分で歩み始めるのです。これが「初心」です。みなさんにとっては、「初心を忘れるな」ではなく、今こそ「初心になる」ことが大切なのです。いつまでも親や先生に甘えた気持では、初心にすらなっていないと言えます。
 
精道学園歌の歌詞に「心に愛の火を灯し 遥かな海へ 漕ぎ出さん♪」とあります。高校3年生のみなさんに贈りたい、ピッタリの言葉です。これが「初心」として心に刻まれていてほしいと願います。ただただ安全な失敗しない道、親の言いなりに生きる道、先を考えない行き当たりばったりの道。これでは人生のスタートラインに立てません。初心にすら帰れません。「遥かな海」とは人間社会を指します。海は世界とつながっています。そこに「漕ぎ出す」とは、エゴを捨て人と繋がり、人と人を結んで行くことです。社会と人々の幸せに貢献することを意味します。
 
この歌詞は福音書の「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」(ルカ5.4)というイエスの言葉に由来しています。神の望みに素直に応える使徒たちの姿がそこにはあります。未来を築くために夢と志を持って、自分の人生の第一歩を刻んでください。それが、あなたの「初心」でありますように。■
*2020/01/10 精道三川台高等学校3年生、朝の説教より(小寺神父)


「ハズレ」は「当たり」-すべては善のために-

学期に一度、小中高、全員が集まり、神のみ前で一つの心で祈ることは価値があります。古い話になりますが、本校設立にあたってオプス・デイ創立者の聖ホセマリアはたくさん祈り、犠牲を捧げました。この学校は神が望んだ学校です。その望みが実現するために神の恵みが必ずあります。それは私たちを飛び越えて働くのではなく、私たちの必死の努力を通して実現するものです。先月、フランシスコ教皇様の来日がありました。高齢にもかかわらず、全力でハードスケジュールに取り組まれました。その神に応える努力が実を結び、努力以上の結果が恵みによってもたらされました。多くの人がキリスト教に好感を抱き、もっと知りたいと願う人が出て来たのです。
 キリストの恵みは今も働いています。イエス・キリストを救い主と信じていない人もいますが、このキリストによって救われた人がたくさんいることは事実です。サラ金に手を出して首が回らなくなり死を考えていた人、転落人生で刑務所に入っていた人、離婚して自暴自棄になっていた人。様々な人が聖書と出会い、そのみ言葉によって立ち直り、イエス・キリストから生きる勇気や希望の光をもらったのです。この人たちは、世間から「脱落者、失敗者、ダメな人間」という烙印を押されていました。世間は「成功、有能、効率」という経済的価値、お金が幅を利かせていて、それ以外は不幸だと考えているからです。
  イエス・キリストは、このような人々に、どうやって生きる勇気と光を与えているのでしょうか?その秘密が主のご降誕に隠されています。今、私たちはクリスマスを準備しています。主イエスが生まれる場面を見てみましょう。「羊飼いたちは、その地方で野宿して、夜通し羊の番をしていた」。牧歌的な情景を思い浮かべますが、現実は悲惨です。「(街中には住むことができないので)町のハズレで家もないホームレスの羊飼いは、野宿しながら夜中まで働いて、それでも貧しいままだった」のです。そんな不幸な人々に天使が喜びの知らせ(福音)を知らせました。「今日、救い主があなたたちのために生まれた。飼い葉桶に寝かされている」。
 「ハズレ」だと思われた人々が一番先に呼ばれました。宝くじに当たった以上の幸運です。不幸が幸せに変わりました。同じことが今も続いているのです。イエス自身もハズレの人生を選びました。宿屋を断られ、馬小屋で生まれるのです。そこから救いが始まりました。失敗と思われた人生が成功の始まりでした。神の計画は世間の考えとは違いました。当たりとハズレ、成功と失敗、勝ち組と負け組、人を分断しません。全員に役割があります。自分のためではなく、誰かのために各自の力を発揮すれば、誰でも幸せになれるのです。これが神の計画です。これを実現させるのが本校の使命です。神の恵みは、もうあります。後は私たちが自分の努力で応えたなら必ず実現します。■*2019/12/20(小寺神父)


教皇様からの宿題「人を活かす未来をつくろう!」
 教皇様は、青年との集いで現代社会の矛盾を指摘されました。多くの若者は社会との軋轢に苦しみ、生きづらさを抱えています。「自分は誰からも必要とされていない。誰からも愛されていない」と感じ、生きる力を失っています。なぜでしょうか?みなさんも気付いている通り、今の日本社会は「有能さ、生産性、成功」ばかりが強調され、青年たちにそれを求めています。そのために競争が繰り広げられ、自分と他者を比較して、劣等感や妬みを覚え、他者に対して攻撃的になっています。競争に負けた者は負け組とみなされ、人間として一段下に見られます。生産性のために人間が犠牲になります。人に仕えるための仕事が、かえって人を不幸にしているのです。
 社会の期待に応えた有能で成功した人々の中には、他者を下に見ることで自尊心を保ち、人々と共に生き共に喜ぶ感性を失っている人もいます。驚いたり感動したりする心を失って、「ゾンビのように生きている人」がいます。生きる熱意も活力も失い、中身のない人形のような人生です。現代の日本は高度に発展した豊かな社会ですが、孤独と愛されていないという思いが人々を覆い、霊的に貧困社会なのです。みなさんの未来はこのようであってはなりません。モノトーンの生きづらい社会ではなく、一人一人が多種多様な貢献をしてつくり上げる「フルカラー」の社会です。全ての人に確かな居場所があり、愛され大切にされる社会です。
 自分に「ない」ものばかり見て希望を失い、暗い気持ちになることがあるかもしれませんが、もう一つの真実があります。自分に「ある」ものを与え、差し出すことが出来る人生です。他者に手を差し伸べて助け、家族のために時間を使い、友人のために心を遣い、神のために祈りの時間を割いてください。あなたは、神のために存在していますが、神は他者のためにも生きて欲しいとお望みです。そのために、あなたの中にたくさんのよいもの、性格、賜物、才能を置かれました。それらは自分のためというより、人のために使うためです。だから、自分の中にこもらず、他の人、特に貧しく、弱く、困って、苦しんでいる人の所へ出向いてください。
 自分のことばかり考え過ぎないようにしましょう。「そんなに鏡を見過ぎると、鏡が壊れますよ」(笑)。他者と共に生き、人の幸せを喜べる人になってください。そうすればあなたは幸せになります。■2019/12/13 精道三川台高等学校1.2年 朝の説教(小寺神父)


「誰のために生きるのか?」

 昨日、アフガニスタンで現地の人々のために井戸を掘ったり用水路を作ったりして、農業支援を通して貧しい人々の自立に貢献してきた中村哲医師がテロの銃撃で死亡しました。1984年からパキスタンで治療や医療教育をするNPO活動をスタートさせ、2000年にはアフガン東部一帯で大干ばつが起こったのをきっかけに水源確保も始めました。「土地を緑化すれば人は難民化しない」という一念でした。掘った井戸は数百に上りました。その貢献が実って、現地の住民からだけでなく政府からも信頼されるまでになっていました。彼の働きで命を救われた人は数え切れないほどでしょう。今も感謝する人が絶えません。現地の心ある人々の悲痛な思いが伝わってきます。私たちは、この不合理な死を悲しむだけでなく、彼の遺志を継ぐことが大切だと思います。それが一番の供養になるはずです。
 
世界から忘れられたような貧しい国の人々を思い、「自分に何ができるか?」を自分い問いかけ、医者として命を救うために現地に出向きました。そこで見たのは、感染症が流行って幼い命が失われ、一人の医師では何も出来ない現実でした。「10人の医者より一つの井戸が人々を救う」ことに気づいて、井戸を掘り始めたのです。彼の人生は貧しい人々のためにありました。危険を承知で現地に踏みとどまりました。信頼関係だけが身の安全の保証でした。「友のために命を捧げる。これほど大きな愛はない」というイエスの教えを文字通り実践したのです。
 
思春期は真剣に人生を考える大切な時期です。「何のために生きるのか?」思い悩むときです。しかし、その問いかけだけでは真実にたどり着けません。人生で最も大切な問いかけは「誰のために生きるのか?」です。人生の意味は、他者との関わりの中にあります。私という存在は、誰かのためにあるのです。誰かの役に立つ自分を発見して、自己を実現させます。自分のいのちが開花します。若者のいのちの中に「他者のためのいのち」が埋め込められているのです。通常は、仕事と結婚で具体化されます。
 
今の日本は若者に「有能さ、生産性、成功」だけを求めていますが、それだけで幸福にはなれません。もっと大切ことがあります。自分というエゴの殻を割って外に出て、自分を必要とする人のために自分を差し出す勇気です。亡くなった中村医師の模範に見習ってはどうでしょうか?■
2019/12/06 精道三川台高等学校1,2年生、朝の説教より(小寺神父)


「信じる心」が平和を生み出す

 フランシスコ教皇は日本の司牧訪問について「信者を増やすためではありません」と公言しています。キリストの福音を持って来るためでした。福音には人々を惹きつける光があります。温かさがあります。教皇様と出会った人たちは、その誠実で温かい人柄に触れて、身を惜しまず人々に奉仕する姿を見て、単純率直で力強いメッセージを聞いて、心ひかれました。感動して涙を流す男子学生もいました。キリスト教の教えを知らない人々も、知らずに神の愛に惹かれたのです。言葉では説明できないけれど、そこに福音があったからです。「イエスは復活して、今も生きておられる」ことが、教皇様の姿を通して日本の人々に示されました。
 
「原子力の戦争を目的とした使用は犯罪です」と断罪し、さらに「その保有も道徳的に悪です」と明言しました。単に理想を掲げるだけでなく、一人一人が真理と正義にかなった生き方をすることで最終的に実現可能であるという道筋を示し、未来に希望を託したのです。真の平和をもたらすのは、人と人の信頼関係しかないのです。その信念に沿って教皇は、アメリカのオバマ大統領とキューバのカストロの間を取り持って国交回復をサポートしました。自分とは異なる立場の人と対立するのではなく、共通の人間性を認め合い、協力可能な点を見つけ出して、手を携えるという基本姿勢を持つことを世界に呼びかけているのです。
 
現代の核兵器のバランスの上に立つ平和は見せかけで、核抑止力は偽りであると警鐘を鳴らしました。前例があるのです。1962年の「キューバ危機」です。キューバにソビエトの核ミサイルが設置されることが明らかになり、米国のケネディ大統領はキューバへ向かうソビエトの船を力づくで止めると表明。世界中に緊張が走り、今にも核戦争が始まりかねない一触即発の雰囲気になりました。米ソが疑心暗鬼で相手を疑っていました。そこに仲介に入ったのが当時の教皇ヨハネ23世でした。フルシチョフとは前年から誕生日カードを交換する関係を築いていました。ケネディの意向を受けて「人類の声に耳を傾けよ」とソ連にメッセージを送り、ソ連の翌日の朝刊「プラウダ」の一面に「人類の叫びに耳をふさぐな」大きく出ました。その一週間後、フルシチョフはケネディにキューバにあるミサイル基地解体を通告して、ソビエト船はUターンして危機は去りました。核のバランスで危機を回避できませんでした。教皇の「信頼力」と絆で回避できたのです。だから一人ひとり、みなさんが人を信頼して絆を結び、認め合い、未来に平和を築いてください。■
2019/11/29 高校1,2年生への朝の説教より(小寺神父)


「死をおそれるな!」

 「男子、死ぬべき所はどこか?(…)ついに死を発見した。死は好むものではなく、また憎むべきものでもない。世の中には生き長らえて心が死んでいる者があるかと思えば、その身は滅んでも魂が存する者もいる。」吉田松陰が高杉晋作に宛てた遺言にある言葉です。現代人は間違いなく死を恐れています。死を先延ばしするためにあらゆる手を尽くしながら健康に気を付けていても、いつか必ず死にます。死に勝つことは出来ません。だから知らない振りを決め込んで、今だけ楽しんで生きる道を選んでいます。心が死んでいるみたいです。松陰が言うように、死は恐れるものでもなく、望むものでもありません。続きの言葉を見ましょう。「不朽の見込みあらば、いつ死んでもよし。そして大業を成し遂げる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。(…)人間とは、生死を度外視して、成すべきことを成す心構えこそが大切である。」聖ホセマリアも同じことを教えています。「(好き嫌い、損得、やる気があるかないか、関係なしに)すべきことを果しなさい!」
 
人生には春夏秋冬があります。みなさんは春の時期です。青春と言いますね。私は秋の時代を生きています。白秋といいます。各季節にすべきことがあります。春には種を播いて、夏には苗を植え、秋には刈り取り、冬にはそれを貯蔵する。農民は労働の実りを喜び、自然に感謝して、酒を造り、神を寿ぎ、共に祝う。一年を終わって悲しむ農夫がいるでしょうか。誰もいません。人生もこれと同じです。なぜ、人生が終わることを恐れるのですか?むしろ人生が完成して、実りがもたらされたことを喜び、感謝して、神と共に祝うべきではないでしょうか?再び松陰の最期の言葉です。「30歳の死を短しとせず。人生の春夏秋冬を完結させるべし。(…)私自身、今が花咲き、実りを迎えた時なのである」(牢獄で書き留めた遺言『留魂録』より)。
 
フランシスコ教皇様は現代の青年に呼びかけています。失敗を恐れて何もしない人生を送ってはいけません。あなたがすべきことを見つけてください。神様が一人一人に素晴らしい人生を準備しています。あなたにしか出来ないことです。あなたの力を必要としている人が待っています。人々の望み、そして神の望みに応えてください。それが、生まれてきた理由であり、人生の意味です。あなたの春夏秋冬を完成させて、喜んで死を迎えることが出来ますように!■*2019/11/15 精道三川台高等学校、高校生のために死者ミサ説教より(小寺神父)


教皇来日記念連続講話(3)

「橋をつくるために」

「わたしたちの模範であるイエス・キリストにならって、橋を架けねばなりません。」フランシスコ教皇様がお気に入りのフレーズです。現代世界は壁を築いて自分の冨や地位や権利を守ろうとして、他者に対して攻撃的になり無関心になっています。他者と関わるのは自分に有利であり、利用する価値があるからです。世界の中心が経済、つまりお金になっていて、人間の幸福が後回しになっています。人間が経済のしもべに成り下がり、経済が人々を分断して社会に対立をもたらしているのです。これでは本末転倒です。教皇様は、経済が人間に奉仕するのが健全な社会だと強調します。
 
「一部の人が富を独占して、人類の大多数が飢えている今の世界は恥だ」とも訴えています。世界のたった62人の資産家が35億の貧困者全体(全人類の半分ですよ!)と同じ富を所有しているのです。87千万人が飢えています。25千万人が移住者(難民)で、行く先もなく無一物です。にもかかわらずお金は富を生む投資に当てられ、貧しい人を助けるために回って来ません。これが現代の資本主義の本当の姿です。皆さんも恥ずかしいと思いませんか?これは政治の話ではなく、人間の生き方の問題です。まず私たちがお金中心の価値観から解放され、真に大切なのは目の前の人と人生を共有することだと気付くことです。それが「橋をつくる」という意味です。政治家の話ではなく、あなたの話です。
 
教皇様は刑務所の受刑者を訪問して足を洗い、スラム街へ出向いて共に語り、ホームレスを招いて一緒に食事をします。パフォーマンスではなく、見捨てられ、世間から忘れられ除け者にされている人に光を与えたいのです。社会の底辺に追いやられて人を社会の真ん中に連れ戻したいのです。そして、一人でも多くの人が人生の価値に気付いてほしいからです。世間から邪魔者扱いされている人がいますが、この世に無駄な人などいません。神は全ての人に愛を注いでおられます。全ての人が神に愛された大切な人です。社会に貢献する役目を持っています。教皇様はそれを行ないで語っているのです。誰でも人々の幸せのためにすることがあります。
 
わたしたちも人と人をつなぐ「橋をつくる人」になりましょう。それは、目の前の人と手を取ることです。一緒に笑い、一緒に泣くことです。一緒に食べて、飲むことから始まります。相手と自分の間に建てた壁を壊すのです。自分ファーストの生き方や考え方を変えましょう。神の願いに沿って、人の道に沿った生き方こそが幸せの土台です。本来の社会の在り方です。それは行いで「神はいます!」と宣言していることにもなります。「橋をつくる人」は、神様に向かっても橋を架ける人なのです。■
*2019/11/15 精道三川台高等学校、全校生徒講話(小寺神父)


教皇来日記念連続講話(2)

『すべてのいのちを守るため』~PROTECT ALL LIFE~

 これが教皇来日のテーマです。環境問題を扱った教皇様の文書『ラウダート・シ』巻末の祈りから取られています。フランシスコ教皇は、この言葉にどんな思いや願いを込めておられるのでしょうか?それは身近で切実な問題です。人間の命、特に弱い者や小さな命に危険が迫っています。幼児の虐待、妊娠中絶という胎児への攻撃、高齢者への無関心や虐待、安楽死、戦争難民の受け入れ拒否などです。いずれも社会の中で弱者であり、社会の底辺や周辺に押しやられている人々です。一番弱い命こそ、一番大切に守られなければなりません。一番小さい命こそ、みんなで守らなければいけないのです。それが出来ない社会は、どんなに豊かでも野蛮な社会なのです。けっして幸福な世界とは言えません。それは「死の文化」です。
 教皇様の頭の中には、福音書の一つの場面がくっきりと映し出されています。イエスを大群衆が取り囲んでいます。小さな子どもが近づこうとしますが、大人に邪魔されて近づけません。使徒たちも「邪魔だから、あっちへ行け」と追い払いました。するとイエスは使徒たちを叱って「その子を連れてきなさい」と命じました。さらに、その子を真ん中に立たせて「この小さな子のようにならなければ天の国には入れない」と諭したのです。使徒たちの中心に子どもがいます。この情景を現代社会にも再現したいと願っておられるのです。
 小さないのち、弱い者がみんなの真ん中にあって、大人たちが見守っている、大切にしている、そんな社会を目指そうと呼びかけておられるのです。現代社会は逆です。大人の都合で子どもが排除されています。障がい者施設を運営している老シスターが嘆いていました。「以前は毎年数人のダウン症の子供が入所していましたが、ここ10年来一人もいません。生まれて来れないのです」と。出生前診断で障害の疑いのある胎児が堕胎されているのです。確かに夫婦にとって重大問題ですが、その解決に当たって一番弱いいのちを犠牲にする安易なやり方に陥っています。しわ寄せが弱い者に行くのです。それは弱肉強食の世界で、利己主義のやり方です。一番弱いいのちを守るように考えるのが大人と社会の責任です。
 弱い者は反対の声を上げません。また、上げられません。だから利用されます。犠牲者になります。それ不幸な社会です。持つ者は持たない者を助けるために富を持っていることを思い出さねばなりません。権力や大人の力は、声を上げない小さく弱い者を助けるためにあります。小さく弱い命を犠牲にしないように、みんなの力をそのために使おう!、そんなメッセージを日本人に発信されるのではないでしょうか。
2019/11/08/ 精道三川台高等学校、全校講話(小寺神父)
 


フランシスコ教皇来日記念特別講話

 38年ぶり、二回目の教皇来日を迎えるに当たって、その意味を深く考えるために4回シリーズで特別講話を始めます。
 
さて高校生のみなさん、日本のマスコミでは「ローマ法王来日」と表現されていたので、後白河法皇のような「時の権力者」のイメージを持った人もいたのではないでしょうか?実際は、多くの人から「パパ様」と親しまれる身近な存在です。同時に、教皇様が発信するメッセージは多くに人を動かし、時には世界の歴史を変えるほどの影響力を持つ、そんな重要人物であることには変わりありません。したがって、来日に当たっては国賓級の厳重警備が敷かれることになるでしょうが、トランプ大統領の場合と大きく違う点が一つあります。それは、人々が近づくことが許されている点です。
 
なぜなら、教皇様は日本の人々と直に「出会う」ために来日するのです。テロや暗殺を恐れて人々の出会いを犠牲にすれば本末転倒になります。実際に聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、車から参列者に挨拶をしている時、至近距離から銃で撃たれ、瀕死の重体に陥りました。それでも沿道の人々と出会うことを止めませんでした。フランシスコ教皇もまったく同じ、殉教の覚悟で「出会い」に臨まれています。テロを恐れていては、神の愛を伝えることなど出来ないからです。
 
フランシスコ教皇様は、あらゆる人々のところへ出向いて行かれます。刑務所にいる人、ハンセン氏病(思い皮膚病)の患者さん、ホームレスの人々、貧民街の子どもたち、宗教の指導者など、全ての人々にキリストの愛を実践を通して伝えようとされているのです。来日に当たっても「あなたと、話がしたい!」との願いを強く持っておられます。日本人全体に向かってではなく、一人一人、あなたに向かって語りたいのです。一般的な話、現実離れした理想的な話ではなく、私たちの現実の何かが変わる、そんな対話をしたいと希望されています。
 
トランプ米大統領が、メキシコからの不法移民をストップさせるために国境に壁を築き始めた時、教皇様は素早く反応されました。「政治家は壁を作る人ではなく、橋を作る人であるべきだ」と。教皇のラテン語正式名称は「Pontifex」(橋を架ける人)と言います。フランシスコ教皇は、その名の通り、人と人、国と国、そして人々と神の間に橋を架けるため、人々と「出会い」を続けておられます。
 
みなさんもこの機会に教皇様と「出会う」ように、また教皇様を通してイエス・キリストと「出会う」ことが出来ますように。■(文責:小寺神父)
 
*精道三川台高等学校全生徒への特別講話2019/10/25


本気で生きる、本気で祈る

ラグビーワールドカップが日本で開催されています。先日、決勝トーナメント進出を懸
けて日本とスコットランドが激突しました。観た人も多いでしょう。特にラスト10分の戦
いは力の限界を越えた「死闘」という言葉がピッタリでした。その姿を見て奮い立った人
もいたでしょう。私も、その一人です。この人たちは「本気だ!」と伝わってきました
。「まじめに頑張る」だけでは、強豪国の仲間入りはできません。信念を持って本気で立
ち向かわないと実現できないものです。「まじめに努力する」と「本気」の違い、それは
紙一重の差ですが、このわずかの差を生み出すためには、気の遠くなるような膨大な努力
の積み重ねが必要でした。それは人々に知られることはありませんが、「本気」の姿に映
し出されます。そして人々は気付くのです、そのわずかの差に。そこに感動するのでしょ
う。
まじめに努力することは尊いことです。まず、それを目指すべきです。でも、そこで満
足して欲しくありません。それだけでは、最後の最後、疲れて果てた時、追い込まれた時
に、持ちこたえられません。自分に負けてしまうのです。「本気」で取り組んだ人だけが
乗り越えられる壁です。本気で生きている人は、輝いています。人々を惹きつけます。人
々を感動させ、人を動かします。それに続く人が現れます。ただの努力では輝きません。
人を動かしません。もう駄目だと思える所から這い上がるような強い気持ちが必要になり
ます。目的から目をそらせず、行き方がブレないと言ってもいいでしょう。
これはスポーツに限らず人生そのものにも当てはまります。インドのカルカッタの聖女
マザー・テレサがそうでした。道端で死にゆく人を見て、助けたいと強く思いました。修
道院を飛び出して、貧しい地区に出かけて助けようとしましたが、石を投げつけられて追
い返されました。何度行っても同じでした。しかし、諦めず何度も足を運びました。信頼
を勝ち取るために、近づいて来た子どもたちに文字を教え始めました。そして、やっと大
人にも受け入れてもらえたのです。そこから援助活動が開始しました。「この人は本気だ
」と現地の人に情熱が伝わり、受け入れられたのです。
ただ真面目に生きるだけでは、人生「物足りない」でしょう。本気で人生を懸けるもの
が必要です。それは、過ぎ去る虚しいものではなく、人々を動かす力があるもの。人々を
幸せにするものでしょう。本気で取り組み、出来ることをやり切ったなら、その人は本気
で祈るでしょう。力を尽くした後は神の領域だからです。勝敗は「神のみぞ知る」です
。「神がいないかのように全力を尽くせ。そして、全てが神に懸っているかのように全力
で祈れ!」聖ホセマリアの教えです。■(小寺神父)
*2019/10/18 精道三川台高等学校3年、朝の説教より


 偏らない心

「心の貧しい人は幸いである。神の国に入るであろう」とイエスは教えました。「心の貧しい人」とは、どういう人のことでしょうか?それは、冨に執着していない人のことです。貧乏人でも、心の中で「あれも欲しい、これも欲しい」と欲でいっぱいになっているなら、貧しい生活をしていても、心は物への欲でいっぱいだから「心の貧しい人」とは言えません。反対に、豊かな生活をしていても、その豊かさに執着せず、寛大に人々を助けるために富を喜んで手放す人は「心の貧しい人」なのです。
 
神を知らず、神から離れた現代人はモノに執着しています。例えば「貧しさよりも富を。病気より健康を。失敗より成功を。不名誉より名誉を。短命より長寿を!」世間では、これを執着とは考えずに、人生の目標と考えている節があります。いずれも価値があることだからです。価値あるものを目指すのは尊いことであり、そのための努力も尊いはずです。一見、筋が通った正論に思えますが、意外なところに落とし穴があります。その反対側の値打ちを認めない点、それを不幸な人生と勘違いしてしまう点です。
 
健康を素晴らしいことで、それ自体は神に感謝すべきですが、健康を失ったら不幸になると考えて、病気を恐れています。健康に気を遣うこと自体はいいことですが、病気を恐れることは間違っています。病気にも価値があります。これまで気付かなかった人々の親切に気付き、不便さや痛みを体験して、病気で苦しむ人々への理解を深め、助け合って生きる意味を見出します。もっと謙虚になり、人々への感謝が素直に湧いてくるのです。成功はいいことですが、失敗は不幸ではありません。むしろ人間は失敗から学んで成長します。皆さんは大学受験を控えています。成功する人もいるし、失敗する人もいるでしょう。成功して有頂天になって、その後の大学生活が軽薄なものになれば失敗以下です。受験に失敗しても、そこから人生の苦難を学び、将来の人生の糧にすれば成功以上の値打ちがあります。本当の成功や失敗は、外的な事柄や結果ではなく、心の在り方なのです。
 
このように、自分が直接に望んでいないことにも隠された価値があります。それを見ない、知らないのは、目先の成功に執着しているからです。自分が望まないこと、想定していなかったこと、人生には様々な事が起こります。そこから素直に学ぶことが大切なのです。初志貫徹する固い決心と同時に、あらゆる出来事から学ぼうとする偏らない心を作ってください。


世間様に「恩返し」

別府の山の中にある天然の露天風呂でいつも出会う、ちょっと変わったおじいさんがいました。湯船の底にタイルを敷いたり、着替えるための小屋を修理したり、周りの草取りをしたり、こまめに働いているのです。「いつも、よく働いていますね」と、声をかけました。そしたら、「これは世間様への恩返しですよ!」と爽やかな声が返ってきました。生い立ちを尋ねると、大変な苦労をされた方でした。小学生の頃、父親と死に別れ、中学生になると、家計を助けるために農家に奉公に出されました。食事は質素で二回だけ。一日中働かされました。三年間で登校したのは数カ月しかありませんでした。だから漢字が読めず、仕事を辞めてから新聞で漢字の勉強を今も続けているそうです。中学を卒業すると、すぐに大阪に出て魚屋に住み込んで働き始めました。世間を恨んでもいいような人生です。それでも必死に働いて貯金して、26、7歳で別府に店を持って、70歳まで必死に働いたそうです。その間も由布岳の登山道をたった一人で整備するボランティア活動を続けました。
 
転機は20113月に訪れました。東日本大震災です。多くの人が亡くなり、さらに多くに人が被災して避難生活をしていました。この人たちに元気になってもらいたい、そんな思いに駆られて現地に飛んで行きました。そこで復旧作業のボランティアに没頭しました。軽自動車に寝泊まりして、食事は自前で調達して、一切現地の人に迷惑はかけないことが彼の流儀でした。その後も、台風や洪水で被害が出る度に現地に出向いて、被災者に寄り添う活動をしてきました。
 
ある時、二歳の坊やが母親とはぐれて行方不明になりました。地元警察と消防が数百人態勢で二日間も捜索したけれど発見出来ませんでした。彼は現地に赴いて、僅か30分で発見して、一躍「時の人」になりました。彼は注目されることを望まず、インタビューの度に「当たり前のことをしただけです」と繰り返して答えました。本当にそう考えていたのです。学校にも行けず、食べるのにも苦労したけれど、いつも誰かが助けてくれたからこそ今日まで生きて来られた、そういう強い思い、確信があったのです。だから恩返しがしたい!でも、その人たちは亡くなって、もういません。だからボランティア活動を通して、お世話になった世間様に恩返しをして、死ぬまで生きて行くのです。
 
皆さんは恵まれた人生かもしれません。でも、同じように様々な人からお世話になっています。いつか「恩返し」に気付いてください。さらに、イエス・キリストから大きな恩を受けていることに人生のどこかで気付いてください。


人生に生きる意味を与える

  長崎に聖母の騎士修道院を創立したコルベ神父は、後に世界的に有名になりました。第
二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所で餓死室送りになった一人の男性の身代わり
を名乗り出て、自ら命を捧げました。後に、それが「愛の殉教」として称賛され、人々の
模範になるように聖人の位にあげられたからです。収容所では自由を奪われ、食事もロク
に与えられず、強制労働をさせられ、弱り果て、餓死したり、役に立たなくなった人はガ
ス室へ送られたりして、亡くなった人は400万人以上にのぼりました。誰もが絶望して、
生きる意味を見失っていました。そんな中でコルベ神父は、生きる意味を見失っていませ
んでした。身体的な自由は奪われていましたが、心の自由を失っていませんでした。どん
な状況でも、人々のために尽くしたい情熱が燃えていました。少ない食料を分け与え、絶
望した人に親切に接し勇気を与えていました。そして、あの身代わりを名乗り出たのです
。人々のために生きることに自分の意味を見出していたのです。

 もう一人、アウシュビッツ強制収容所から生還して有名になった人に、哲学者のビクト
ル・フランクルがいます。収容所の経験を『夜と霧』(みすず書房)という本で世に知ら
せました。その中で興味深いことを述べています。収容所から生きて帰った人は健康で丈
夫な人ではなく、希望を失わなかった人々だったのです。生きる希望が無い状況で絶望し
なかったのは、愛する人が母国で待っていたからでした。愛する人のために生きて帰りた
い、この思いが心と体を支えたのです。自分のために生きている人は絶望して、自殺する
人もいました。でも、愛する人のために生きている人は希望の火を心の灯し続けることが
出来たのです。

 人生に本当の意味を与えるのは、社会的な身分や経済的な成功ではないのです。それは
、他者の手で簡単に奪われる儚いものでしかありません。真の生きる意味は、自分の中に
隠されています。誰からも奪われない愛する心です。コルベ神父もV・フランクルも生き
る意味を見失わなかったのです。それ故に、一人は命をささげ、もう一人は苦しみを耐え
忍んで生き伸びました。この二人を合わせたような人生を送った人がいます。それは、イ
エス・キリストです。イエス・キリストは、私たちを愛して、愛ゆえに苦しみを耐え抜く
ことが出来ました。さらに、愛ゆえに私たちの身代わりになって命を捧げました。イエス
は、このためにこそ人になってこの世に来たのです。人生に意味を与えたのは、自分自身
の生き方そのものといってもいいでしょう。あなたも人生の意味を考えましょう。人から
与えられるものではなく、それは自分自身が与えるものなのです。■
*2019/07/12 高校1・2年説教(文責:小寺神父)


聖ホセマリアとの出会い

 オプス・デイ創立者で、本学園の創始者でもある司祭聖ホセマリアは1975年6月26日にローマで亡くなりました。私は生前に会ったことはありません。しかし、私が司祭になったきっかけは、彼との出会いです。その出会いは友だちを通してもたらされました。大学三年生の時です。創立者は帰天して「取次ぎのカード」が出来ていました。ホセマリアを慕う世界中の人々は「パドレ(お父さん)」と呼んで、そのカードを祈ってお願いをしていました。
 
「何でもお願いしたら聞いてもらえるよ」と友人から祈りのカードを渡されました。私はキリスト信者ではありませんでしたから「お守り」程度に考えて持っていましたが、お願いすることはありませんでした。数ヵ月後ローマ巡礼に出かけた時、友人の一人が逸(はぐ)れて、待ち合わせ場所に来ませんでした。誰からともなく一緒にカードで祈ろう、ということになりました。すると数分後、歩道を歩く姿がバスの窓から見えたのです。その時、取次ぎの祈りって面白いなあと感じ、日常生活で何かと取次ぎを願うようになっていきました。こうして、私の心に「パドレ」が徐々に入り込んで来ました。最初はホセマリア神父がパドレ(お父さん)だということがピンときませんでしたが、一年後にはすっかり「お馴染み」になり、聖ホセマリアが本当に「お父さん」だと思えるようになっていました。
 
友人の言葉を信じて試してみることが出発点でした。神とのつながりも、人間関係の信頼から始まるのですね。神と親しくなるのも人間同士の付き合いと同じで、出会って、知り合って、信頼して、言葉に従ってみる、そこから始まるのです。あなたと聖ホセマリアも精道学園で出会いました。そのうち、聖ホセマリアがあなたの心に問いかけます。「あなたは、私の事を誰だと思いますか。」話しかけてみましょう。私と聖人がつながっていること、そして、私と神様がつながっていることが日ごとにはっきりしてきます。あの最初の祈りから40年が経ちます。あれが洗礼の決心につながり、今の私があります。
 
聖ホセマリアは、「全ての人が神に呼ばれ、神の望みに添って生きるように招かれている」と教えていました。今は、それがよく分かります。個人的には「司祭になりたい」と望んだことは一度もありません。教師として一生を過ごす覚悟でした。しかし、ある日、「日本人司祭が必要だ」と請われた時、「必要とされるなら応えよう!」と思いました。それが司祭の道を歩み始めた理由です。あなたも何かの使命のために、神に呼ばれていますよ!
 ■2019/06/14 精道三川台高等学校1・2年生への説教(文責:小寺神父)


取り次ぎの祈り-奇跡は起こる-

 みなさんのテニス部の先輩で、M君という人がいます。O先生の教え子です。テニスがとても上手でした。先月、そのお母さんからお願いごとをされました。足が悪くて車椅子で生活されていますが、家族や周りの方に迷惑をかけているので、足が治るように祈ってくださいと頼まれたのです。医者からは治らないと言われているのですが、奇跡が起こると言われるフランスのルルドを訪問することが決まったからです。私は、半信半疑ながら「いいですよ」と祈りを引き受けました。たとえ治らなくても、心が強められて、車椅子生活の苦しみを乗り越えることができると考えたからです。


 きっかけは、グアダルーペ・オルティス・デ・ランダスリ女史の列福式に参列するためにスペインへ行くことでした。この方はオプス・デイの信者で、聖ホセマリアの教えを忠実に実践したスペイン人の女性で、先月18日、マドリードで福者に上げられました。(単独でメキシコに渡り、創立者の願いを受けて、女子学生寮や農業学校、診療所などを創立ち上げました。その後、ローマに呼ばれて家事の指導に携わり、またスペインに戻って専門の化学の研究を続け、博士号を取りました。50代の時に癌になって、信仰の模範を残して惜しまれながら59才で帰天しました。)
 
 だから、グアダルーペさんに取り次ぎのお願いをしてほしいと、いろんな人にお願して回ったみたいです。、医学的に奇跡的治癒が証明されなければ、福者として認定されません。福者の位に上げられるということは、奇跡が認められたからです。天国の神様のすぐ近くにいて、願いを取り次いでいることを意味します。なんだか安っぽい信仰に思えるかも知れませんが、本人は真剣そのものです。「本当に治ったらいいのになあ」と思いました。「でも、たぶん無理だろうな」と、どこかで疑っていました。
 
 巡礼旅行から帰って来られました。そして、会ったら元気に一人で歩いているのです。もう、びっくりしました!本人が報告に来て、教えてくださいました。ルルドで奇跡の泉に浸かって沐浴した時に、ふっと体が軽くなるような感覚がしたけれど、水から出ると、やはり一人で立てなかったそうです。そのまま日本に帰っても歩けませんでした。まだミサで聖体を受けていないことを思い出して、信心をこめてミサに与り、イエス様を頂いたそうです。すると、自然に自分一人で立って、歩いて席に帰っていました。あまりにも自然で、あっけなくて信じられないぐらだったそうです。私は、疑った自分を少し恥ずかしく思いました。今も奇跡は起こります。ただし、信じてお願いして、祈ることが欠かせません。あなたにも奇跡は起こりますよ!■*2019/06/07 精道三川台高校3年生向け説教より


「はじまり」まで遡る

 みなさんは、私が神父だから神様の話をすると思っているでしょう。そうではありません。その逆です。神様を信じて、神様について伝えたいから神父になったのです。先生が教えるのは、先生だから当たり前と思うでしょう。それも逆です。その人は、ある日、ある時、教師になろうと決心したのです。決心させる何かが心の中に起こったのです。みなさんにとって親が親なのは当たり前ですね。両親から生まれたのですから。しかし、親もずっと親だったのではありません。昔は子供でした。ある時、決心して結婚をして、子どもを望んで、親になろうと決心したのです。そして、今があるのです。みんながいるのです。
  
私が高校3年生の頃の思い出ですが、母と一緒に母の実家に行って、母だけが先に帰ることになりました。その時、母が荷物を忘れて帰ったのです。すると祖母が思わず「まあ、あの子ったら…!」と言って荷物を持って追いかけて行きました。当時、母は50歳を越えていました。でも「おばあちゃんから見たら、母はいつまで経っても子どもなんだ!」とすごく新鮮に感じたことを覚えています。みなさんが当たり前だと思っているこの社会も、始めからあるのではありません。誰かが「こんな世界を造ろう、こんな社会にしよう!」と決心して出来上がったのです。
  
物事には「はじまり」があります。そこには「自分から望む」という決心があります。そこから出発しています。決心がなければ始まりません。決心が無いまま始まっても、それは長続きしません。はかなく周囲に流されてしまいます。一人一人の決意が形になって、社会を形成しています。様々な人が様々な考えで活動しながら、対立や摩擦があるとは言え、安定と調和があることは奇跡的です。人間に吹き込まれた神の息吹(霊)によって一致と喜びが生まれました。しかし、その一致は人間の罪によって敵対と怒りに変わりました。
 
あなたの命は親とつながり、その命は進化の逆をたどって、地球の生命誕生にまで繋がっています。その始まりは、きっと天地創造の神ともつながっているでしょう。科学的には証明できませんが、否定も出来ません。だからこそ、一人一人が素直な心で、内的な神と向き合い、語り合うこと、つまり「祈り」が大切です。人として成長するために祈りを避けて通れません。調べて、考えて、祈って、決心すること。そこから「あなただけの人生」が、はじまります。利己主義の「あなただけ」ではなく、あなたにしか出来ない、他の人に代われない人生という意味です。すべてを始めた神は、あなたのためにそのゴールも準備しているのです。■*2019/05/17 精道三川台高校1・2年生、朝の説教より(文責:小寺左千夫神父)


平成から令和へ祈りを引き継ぐ

4月30日、天皇退位に伴い、最後にお言葉を述べられました。あらためて天皇が国民に寄り添い、誠心誠意、国民の幸せだけを思って生きてこられたことが明らかにされました。本当に有難いことです。国の代表が自己を忘れて国家と世界の平和を心から願い、人々の幸せだけを考えて祈っている国は、世界のどこを見ても、どの時代を探しても、なかなか見当たりません。あえて引き合いに出すなら、ただ一人、ローマ教皇がそれにあたるでしょうか。利害や好き嫌い、考え方の違いを超えて、普遍的な心で人々を思うことは、ある意味で宗教的とさえ言えます。それをご自分の立場上の勤めてとして実践されてきたことは、まことに驚くべきことです。いわば天皇はご自分の仕事を聖化されたと言えるのではないでしょうか。
  
奈良時代と明治から昭和にかけての一時代を除けば、天皇は権威の象徴であり、国家の一致の象徴でした。聖武天皇は天災や飢饉で苦しむ民衆を救うために、国家平安を祈願して奈良の大仏を建立しました。また、元寇の国難に遭って、天皇は伊勢神宮に参って国家の安寧を祈願されました。天皇はいつの時代も祈っていました。明治天皇も昭和天皇も、世界の人々は友であり、世界が平和であるように願って歌を詠まれています。戦後、天皇が国民の象徴となって、祈る姿が一層際立って見えます。いつも災害が起これば、現地に足を運び、苦しむ国民に寄り添って、祈られました。
  
5月1日から令和の時代が始まりました。「剣璽等承継の儀」で天皇交代が示され、新天皇が即位されました。三種の神器の「草なぎの剣」と「勾玉」は常に天皇の側にあるものとされています。そのため、新天皇はこの神器と共に退出されました。これから、どこへ出かける時でも、お付きの者が箱に収められた剣と勾玉を持って天皇にお供します。アメリカ大統領が出かける時には、かならず原爆の起爆スイッチを持った人がお供するそうです。同じ平和を願うにしても、そのあり方が正反対のように見えてきます。『剣で勝利する者は剣で滅びる』とイエスはペトロを諭しました。この言葉は今も生きています。
  
「祈りの人になる」これは特別なことではなく、身近にお手本があります。家族を思うお父さん、お母さん、国民を思う天皇、世界の平和を祈る教皇、人類の一人一人を思うイエス・キリストなど。みな、祈りの人です。私たちは、たくさん祈ってもらいました。これからも祈ってもらうでしょう。この祈りに対して祈りで答えましょう。身近なお手本に倣いましょう。このように、祈られていることに気づくこと、そして愛する人を思うことは祈りの始まりです。祈りで愛は大きくなり、やがてイエス・キリストの愛に追いついていくことでしょう。■
 *2019/05/10 精道三川台高校、3年生への説教より
 

祈りは人間の証明

 発掘された人骨が人間のものか、類人猿のものか、それを識別するための一つが、「祈り」です。死者を葬った形跡があれば人間です。たとえば、人骨と一緒に花粉や種が大量に見つかれば、亡骸と一緒に花を手向けたことが分かります。あるいは、魂が抜けださないように体勢が不自然に窮屈な状態で見つかれば、これも祈りの跡です。いずれも死後の世界を考えている証拠です。それは時間と空間を超えた思索をしている印になります。このように、「祈り」は人間の証明になっているのです。
  
みなさんは祈りますか?大げさに言えば、祈らない人は人間になりきっていない、未完成の人間、未熟な人間といえます。人間は「時空を超えて考える」ことと「他者を愛する」ことに加えて、祈ることで完成します。もちろん、祈るだけでは不十分です。でも、祈らないのも不十分なのです。聖ヨハネ・マリア。ヴィアンネー司祭は、「人間は美しい務めをもっています。それは、祈ることと愛することです」と話しています。私たちは、祈るように、愛するように招かれています。そして、祈り、愛することで幸せになり、人間として完成されていきます。
  
祈りは普遍的です。誰でも祈れるし、祈らなければいけません。偉大な科学者アインシュタインも神を信じ、祈りました。祈るとは、自分の力の限界を知っている証であり、人を思う印です。もちろん、いのりにも様々な種類がありますから、自分のことしか祈らないという場合もあるかもしれません。そうであっても他者の力に信頼していることには違いありません。私たちは、他の人々と繋がっています。利己主義は、その絆を壊します。祈りは、それを修復して強めます。人々の繋がりの中心に神がいるのです。
  
みなさん、全力で勉強してください。全力で部活に励んでください。そして、友だちを大切にしてください。それが人々と繋がることです。それが祈りの土台になります。その上で「祈る人」になってください。祈りは弱い人の神頼みではありません。努力する人が更に成長する道です。一日に一度は沈黙の時間をもって自分と向き合い、天を仰ぎ、あなたの信じる神と向き合ってください。そして、自分のため、人のために祈ってください。その祈りが、あなたを人間の完成に導いてくれるでしょう。■
 2019/04/19 高校1・2年生への説教(小寺神父)
 

「仕事の成功」と「人生の成功」

 ビジネススクールはビジネスの成功を請け負っています。そのために学生は高い授業料を支払って入学します。私が訪問していたバルセロナにあるIESEも同様です。学生は、大学を卒業して社会人を経験した人が条件です(今年から緩和された)。だから一流企業から派遣されて来ている人もいますが、前途有望な仕事を辞め退職金を授業料に充てて家族連れで来ている人も少なくありません。失敗が許されない状況です。それに見合う成果を上げなければスクールは存続できません。しかし、IESEが他のビジネススクールと違うのは、仕事の成功だけを目指していない点です。真に目指しているのは、仕事の成功を通して「人生の成功」を目指しているのです。
  
人生の成功とは何でしょうか?仕事における成功もその一つかもしれません。経済的に成功して豊かな暮らしをすることかもしれません。あるいは、社会的な地位を築き、権力を手にすることかもしれません。それを目指して努力いる人も多いでしょう。ところが、それで必ずしも幸せになっているわけではありません。たとえば、家族が犠牲になっていたり、友人を裏切って恨みを買っていたり、人々の信用を損なっていたりすることも珍しくありません。それでは本当に幸せな人生とは言えません。優越感や見栄、世間体、虚栄心は満たされるでしょうが、心の奥は虚しさを覆い隠せません。
  
人生の幸せは、家族や周囲の人々を幸せにして、自分も幸せになることです。そして、仕事も同じことです。仕事の真の成功とは、人々に仕え、喜びをもたらし、人々の幸せに貢献することに他なりません。真面目に、真剣に仕事に向き合うなら、結果的にそのようになるはずです。仕事は文字通り、人々が必要としているから仕事のニーズが生まれ、それを満たすことが仕事の目的になりますから、必ず人々に仕えるものであり、社会に貢献するのです。ところが、ある種の仕事は人々に不幸をもたらしました。たとえば10年前のリーマンショック。破綻のリスクを隠して自社の利益だけ、自分の売り上げだけを伸ばそうとした利己主義、エゴの結果でした。
   
みなさんの今の仕事は勉強です。仕事の成功は受験の成功にあたるでしょう。たとえ望みの大学に入っても人生に成功したわけではありません。また、受験に失敗しても人生に失敗したわけではありません。経済的に大きな成功を収めながら、不正が発覚して転落人生を歩んだ人もいます。人の恨みを買ってしまった人もいます。良心の一線を超えると人生の成功はおぼつかなくなります。法律を守るだけでは不十分です。合法なら何をしても良いのではありません。それでは仕事で成功しても、人生の失敗者になります。人生の成功を真剣に考えてみましょう!■2019/04/12*高校3年生説教より

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更新しました。(2020.05.29)